カミカゼ☆エクスプローラー!

 巷での評判通り、気に障る要素の極端に少ない作品という印象だった。
 性的な興味について適度にオープンな主人公は展開を無闇に遅滞させることもなければ感情移入を阻むこともなく、日常シーンでの皆の仲のよさは一時的な意見の衝突の上でも揺らぐことがない安心感を備えている。全てのシナリオを終えて俯瞰してみれば根源的な悪人を見出すことはできず、敢えて言うならば作中で黒瀧らが語ったように全ては天命だったと見做すのが穏当なところだろう。能力バトルは殺伐としすぎることも陳腐に堕すこともなく適度な緊張感を維持してくれるし、そこでの主人公の特異性の扱いも悪くなかった。総じて、気にならないでもないがまあ許せるといった程度の瑕疵を丁寧に排除していったような感触。
 学園ハーレムを組み上げるにあたり、必要な要素と不要な要素とを精査し、不要なものだけを排除した―――というのが感触の上では最もそれらしい形容だ(実際の製作過程については知らない)。「必要なものだけを配置した」ではない、というのが僕の感想の上では重要なのだが。つまり、もっと面白く/緊密で/完璧な作品にする余地は多分にあったろう、ということ。
 しかし現にこれだけの完成度で心地よい世界を成立させているのだから、結果論の理想について語るよりは、まず実際の達成について評価したいと思う。
 
 以下、√ごとの雑感。
 
・沖原琴羽
 あまり印象にない(最低)。……やはり物語の中核にほぼ触れない√だけあって、書きづらかったのかなーという印象が非常に強い。
 負けヒロイン的な立場であることを自覚する幼馴染、というのは大変よい。分析癖のある主人公が肝心の真意については分析しきれていなかった、というのもまた。
 
・速瀬まなみ
 要所要所での突っ込みが冴え渡る妹。声優の力、というものを実感する。
 実妹であり、シリアスに葛藤もする―――が、全体の雰囲気としては重くならない、というのが少し引っ掛かった。今作で扱える範囲を越えたシリアスという感触。近親相姦について、周囲の目が優しいのは良し悪しだろう(やはりひまチャきねねねぇ√を想起せざるを得ない―――甘やかしてなんかやらない、という優しさ)。主人公が覚悟完了していただけに、勝手に身を引こうとするシーンはまなみの一人相撲の感が漂う。とはいえ、無論として禁忌をも乗り越えてまで進もうとする恋心こそがまなみのペネトレイターを象徴するものであり、実妹設定はペネトレイターによって貫かれる障害のひとつとして配置されただけだ、と読むのがまあ穏当ではあるのかな、とも思う。
 個別前だが、脱衣所ではち合わせる場面のCGが作中最強のShicorityを有する。
 
・姫川風花
 えろい委員長。学園有数の美少女なんだけど、特に男子勢からの嫉妬を一身に受けたりしないのが大変善い。
 盾のメティスであり、守護のメティスである。相手能力の無効化は調停者としてのパーソナリティが強く反映されたもの、ということだろうか。盾→他者への心理的隔壁という読み替えが一切遣われなかったことには少し驚いたが、その種の読み替えで豊かになるキャラクターには見えないので、正しい処理だと思う。
 
・祐天寺美汐
 青山ゆかりの声は大好きだが流石にメインヒロインだと若干つらいものが感じられる昨今。年下キャラはちょっと無理が……こう……。
 菜緒先輩に真相を語らせるうえで、彼女に死が迫った状況を容易するというのは必然性を感じられる処理だった。それくらいしないと菜緒先輩は動かないだろうし。あのシーンに全てを持って行かれたような感触すら。
 
・宇佐美沙織
 エロシーン全般が苦手。くるくるとか含め。やはりゆのはなでほなにーが最も苦手マンだけのことはある。
 最終的なシリアス部分の処理は最も好みだが、個別に入った直後の主人公誰だこれ感については如何ともしがたく、出来れば個別突入と同時にゆるやかな変化を重ねて終盤の主人公が完成するような展開にして欲しかった。冷静さが売りの主人公にいきなり草津拓也さんが3割くらい憑依したような感触だったので。
 口先男と揶揄されるところから始まり、言葉は事実を規定してしまうからと真実を濁され、言葉はただの言葉に過ぎないと結論付ける流れは中々に巧く決まっていたと思う。覚醒したメティスによる全人格的な把握が恋を終わらせてしまうのは怖いが、遣わねば絶対に勝てない―――という二律背反が、人は変化し成長するという(作品全体を貫く)テーマによって解体されるのが善い。
 
 
 あまり感想に書くことないなー、というのはあって。問題意識がギュンギュン音を立てるタイプの作品ではない(僕の問題意識に掠らない、というだけの話。念の為)。
 プレイ後に一括して書いているから、ではあろう。まともに書くならおそらく、プレイ中に巧いと感じた部分を逐一記録し、都度仔細に検討していくような行いが必要だ。全体としての構造よりも積み重ねられた部分それ自体の精度の高さに着目せねばならない作品だろうし、そういったことを書くには僕の記憶力は貧弱に過ぎる。そういう話だと思う。

私の人生を変えたエロゲ10選

 要は自分史の捏造である(セルフ偽史紡ぎ)。記述で自己を再帰的に更新しよう的試みと思ってもらえれば。
 以下、あやふやな記憶に従う限り、基本的にプレイ順の筈。
 
1.月姫
 人生初エロゲ。こんなに面白い娯楽が存在したのかよ、と本気で感激したことを今でも生々しく覚えている。これは本当。
 決して広くない街を舞台に複数人物の視点から同じ事件を描くことで生じる、物語の陰影。決して少なくないエロゲがその構造上必然的に備える特長であり、月姫固有の要素ではないものの、当時の僕にとっては間違いなく革命的な物語の魅せ方のように思えた。父親の仕事用PC(Win95、メモリ32MB)でサルのようにプレイしてた思い出。
 
2.AIR
 抜けるような青空の下で、僕らは物語と断絶する。
 理解を超える物語、というものを、自ら求めて読んだ限りの媒体において見出すのは初めての体験だったように思う。押し付けられたわからなさではなく、追い求めた末に置いてけぼりにされるような感覚。青空を幻視する。僕らには、過酷な日々を。
 
3.CROSS†CHANNEL
 コミュニケーション関係であたまがおかしくなっていた時にプレイしたので。
 何を受け取ったのか、もうあの頃の記憶は(発狂してたのもあって)サルベージできないけれど、人生を変えられたという実感だけは今も残っている。
 
4.めじょく
 四番目にして早々に雲行きが怪しくなってきた。実際のところ抜きゲーのが語りやすいんだよ!
 予想もしてない寝取られってものの衝撃と、怒り勃起/鬱勃起の凄まじさを教えてくれた作品。正直なところゲーム本編でのメインの獲物たる女性たちにあまりShicorityを感じなかったので、寝取られシーン以外わりとどうでもよかった。後半の寝取られるのつらいけど寝取られてくれ、というアンヴィヴァレンツなプレイ体験も中々。
 
5.Quartett!
 メイ・アルジャーノを知るものは幸福である。ハンスを愛するものはその次に善い。
 強度の高さ、孤高であること、省みない優しさ、そういったものについて考える契機になった思い出のキャラ。Quartett!自体も非常に好きな作品だが(好きなエロゲ5選、でも入るかも)、彼女のようなものの存在を認識したことの方が人生への影響という意味では支配的だったように思う。ああいう人間になれたらなー。
 
6.魔法少女アイ2
 怪人が筋少ネタ連発してて爆笑したよね。
 兎にも角にも耳姦である。耳とか性器じゃないんだけど? 馬鹿なの? 死ぬの? と思っていた僕の蒙を啓いてくれた記念すべき作品。耳は間違いなく性器。
 
7.あやかしびと
 主人公の物語こそがエロゲなのだ、と確信した契機として。
 少なくともPC版あやかしびとには、好きなヒロインというものがいない。好きな√での如月双七、しかいないのだ。移植版で追加された逢難√は大好きだが、あれだって「如月双七を理解する装置」としての逢難にしか興味がないのではないか、と問われれば何も言い返せない。主人公の変化の触媒として要請されるヒロイン、という図式。
 
8.3Dカスタム少女
 半分以上は優れたMODのおかげなんだけど、優れたMODを作りたくさせる根幹部分の素晴らしさは紛れも無くスッタフの努力の賜物だろう。
 なにはなくとも、カメラ目線MODである。少し肌蹴た制服にカメラ目線MOD、バックで交尾するカスタム少女を横合いから眺めるだけで寝取られの絵が現前する。エロとは窃視であるべきだ、と常々思う僕にとって、あまりにも衝撃的なエロ生産ゲームだった。
 
9.最果てのイマ
 僕にとっての窮極。
 
10.この青空に約束を
 高濃度に圧縮された想像上の青春概念が君の人生を粉微塵に打ち砕くだろう。後には何も残らない。
 丸戸は鬼だ。決して心を許してはならないよ――――――
 

蒼き鋼のアルペジオ 総評

 あまり整理できていないので、印象的なことだけ散発的に。
 
 蒼き鋼のアルペジオ。和音(コード)ではなく、分散和音(アルペジオ)。
 つまりは時間経過により響きを増し/変化させる和音であり、構成要素が増えるにつれて複雑さを増す機能であるのだから、正しく群像劇を予感させるタイトルではある。群像だけに。
 あまりアニメ版からは群像劇的なニュアンスを感じなかったが、或いはそれこそが漫画版から取り零された/零さざるを得なかった要素かも知れない。読んでないので適当。
 
 千早群像とイオナの初遭遇のシーンで特筆すべきは群像のイオナへの対応の仕方で、強い言葉で相手を否定するところから入りつつ、相手が傷付いているらしいと見るや否や、言った自分の方が表情を悲痛に歪ませて言葉を濁す―――といった一連の流れに、彼がどのように自分の心を鎧ってきたか、その過程が垣間見える。無論としてあのシーンのイオナは傷付いてなどおらず、ただ単純に、機能として群像の言葉を鸚鵡返しに反芻しているだけなのだが、そういった表層の振る舞いにすら思わず(おそらく本意でない)気遣いをしてしまうことで、千早群像というキャラの素の人の好さが表現されていたように思う。きっと今までも近づく者にはそうしてきたのだろうと僕に想像させるに、それは十分な描写だ(そしてその繰り返しを終焉させるイオナとの出会いの劇的さも、ここに最大限強調される)。
 回想で描かず、言葉で語らせず、現在の描写を以って来歴を想像させる。もちろん、第一には極端に足りない尺のための短縮処理に過ぎないのであろうが、僕はそのような省略の技法を好ましく思った。
 
 上述のシーンに限らず、トゥーン表現の3D(といった形容で正しいのかは怪しいが(おそらく上からまた描いてるのだろうし))であるにも関わらず、キャラクターの表情が豊かなことが印象的な作品だった。
 にも関わらず、というのには語弊があって、実際には「であるからこそ」と繋ぐのがおそらく正しい。素材を用意しさえすれば空間の中に自由に配置できるのが3Dの最大の強みであり、それは取りも直さず、アニメの表現における、カットごとの描き直しの手間を大幅に減じるものであるからだ。作画のコストが平均的に低減できた分だけ、様々なシーンに凝る余地が生じた、色々なキャラが目まぐるしく動く作画が可能となった、と捉えておくと非常にそれっぽく感じるが、実際の制作体制の話を寡聞にして知らないため、エア制作論に終始するほかない。つまり大変胡乱な話である。
 また、全編通して、飽くまでも2Dの画面作りのために3Dを使っているシーンが印象的だったことも書いておく。それはたとえば、ハルナがコートを奪われたギャグシーンでの離散的な時間の遣い方―――3Dであるのにキャラを何度も瞬間移動させている―――だったり、たびたび見られたアイレベルをキャラと同じ高さにとった平面的な画面作りだったり、といった処理に感じたことだ。無論、3Dであることを存分に活かした、ぐるりと回り込むようなカメラワークは随所に見られた(コンゴウの出撃シーン、ヒュウガの登場シーン等、枚挙に暇がない)のだが、そういったシーンが実際に存在するからこそ、そうではない、静的なカメラワークには強い演出意図を感じる。できるけれどしない、という状況は、強く拘りを感じさせる訳だ。
 
 物語としては、かなり切り詰めた結果のそれなのかな、と思わされる部分が多かった。
 先述の、群像の過去の回想がないのもそうだし、人間のクルーの来歴が一切語られないことなどはいっそ清々しいほどに省略の苦労を窺わせる。また、アニメとして描かれたのが新兵器をアメリカに輸送する期間のみ、というのもそうだ。戦争が終わるまでの話は描かれないし、物語の最大の山場はコンゴウとイオナの戦いに設定されている。話の軸が人間化―――と言って悪ければ意志の獲得であったのは、短い尺に纏めるための処理であったのかなと想像するが、尚も連載中の漫画版においてはどう描かれているのか知らないため、何とも言えない。もしかすると、漫画版の序盤をそのまま切り取った作劇かもしれない。いずれ読んで確認したくはあるが。
 
 さて、意志の獲得である。
 ぶっちゃけ僕は意志とか持ってるように見えない無機質なロボ子と一緒にいるだけで幸せになれそうな人間であるので、異種の人間化というテーマには常に生理的な萌えなさを感じてしまうのだが、イオナもその例に漏れなかった感はある。主人の死を予感するイオナの悲しみ方は猫のようなそれであって欲しかった、ということだ。わかりますか。
 個人的には、コンゴウの“「私は世界など認識したくはなかったのに」”という叫びに強く同調してしまった感がある。新たな認知を強いられることの苦痛。彼女にはもう寄る辺がなかったのだから、尚更だ。
 ……コンゴウにそのような台詞を吐かせることで、すんなりと仲間になった霧たちとの話では触れなかった、彼女らに意志を与えることの残酷さについても描こうという試みだったのかな、とは思いつつ。
 
 ところで、感情など不要だった、と断じたコンゴウが群像のもとを離れてからマヤを失うまでの間、変わらずマヤのことを大切に思っているふうに見えたのが、非常に強い萌えポイントではあって。
 カーニバルbotと化したマヤに思い出の話を悲痛な声で振るシーンなどを観ても、コンゴウが手足のようにマヤを自己と同一視していたようには到底思えないし、コンゴウのマヤへの想いは完全に友情か、親愛の情であるように見える(見える、というのが曲者ではあるのだが―――単なる機能としての反応経路を有すること、そこに感情が存在することとはイコールでは結ばれないので)。あれが感情の産物であるとするのなら、彼女は感情が必要か不要か考える時、自分とマヤとの間に存在する何がしかの感情については度外視していた、と読むことが可能なように思う。当然すぎて考慮の俎上にすら上らない関係性。

ご注文はうさぎですか? 総評

 まだ観返しての検討とか済ませていないけれど、とりあえず通して追ってきた上での感想をひとまず。
 
 僕がある場を優しい世界であると思う時、念頭に置いているのは以下のようなことだ―――自己演出が制限されないこと、不随意な空気の読み合いを強制されないこと。もっと単純化して、ありのままの自分をどれだけ出せるかと言ってもいい。
 たとえばきんいろモザイクに於いては、互いによく知る幼馴染同士ですら、両想いにも見えるペアの間ですら、頻繁に思考が伝わらない場面があった。軽い冗談にもマジな突っ込みが入りうるし、極めて胡乱な勘違いに更なる勘違いが上乗せされるような事態が頻発する世界観。
 そのズレは無論、第一義的にはギャグとして利用されるために存在していたのだろうけれど(意図の誤解をベースとした笑いの創出)、また同時に、それは世界の心地よさを保つためにも機能していたように思う。全ての発言が深刻に誤解されたり裏読みされたりしうるということは、全ての深刻な発言がその深刻さの特権的な重さを失うことと同義であり、あらゆる瞬間に通じない可能性の強く存在する会話には、通じさせるためだけに付与される類の冗長性が必要とされない。丸出しの意図を投げ合う、不純物のない会話。誤解を恐れることなく発され、そして誤解されていく言葉たち。そして、噛み合わないにも関わらず、楽しそうな彼女たち。
 あれはディストピアだと断ずる向きもあろうが、僕は確かに、あれをひとつの理想として見ていた。
 長くなるので詳細は省くが、同じような理由でもって、僕は『WORKING!!』『動物のお医者さん』の世界にも心地よさを覚える(というか、後者の文庫版あとがきの記述がこのような観点を持つに至った契機だ)。
 
 他方で、ゆゆ式に於いては逆に、極めて高度に意図が通じるがゆえの楽園が描かれていたように思う。常に二手三手先を見据えた会話。どう会話を転がして/或いはどこで打ち切ってしまうのが最も楽しいか、常に各人の意図が錯綜し、その場その場で適切な流れを採択していく世界。無論、そのような行いは構造だけ取り出してみれば現実世界でもよく見るそれではあるが、各キャラクタの圧倒的な思考の早さ/発想の面白さに支えられた時、尋常の会話は非日常的な尊さを宿し始める。行われているのは間違いなく空気の読み合いであり、局面によっては発言の強制も発生するが、それら全てが誰をも傷つけることなく、面白さに繋がっていく。圧倒的な知性でもって維持される優しい空間。
 そして有り余る頭のよさは、自分を殺すことなく、ネタの流れに乗ることをすら可能とする。本当にすごいと思うのはここで、見方によっては、彼女らは発言者の癖までをも考慮に入れて流れを操作している、と見ることもできる。
 
 この他にも優しい世界であると感じた作品はあるものの、それらの傾向については上で語った二作のヴァリエーションとしておおよそ語ることが出来る(というか、出来るように「優しい世界」という概念を僕は整え、運用してきた)。超人たちによる極めて高度なコミュニケーションを構築するか、或いはディスコミュニケーションを徹底するか。畢竟、この二択のどちらかを選ぶこと、つまり伝わったり伝わらなかったりする中途半端な状況に身をおくこと―――一般的なコミュニケーションの困難さであり、つらさだ―――を極端な仕掛けによって迂回してしまうことが、安定的に優しい世界を供給するための処理であると、僕は考えていた。
 
 そこで、ごちうさはどうなのか、というと。優しく心地よい世界であるにも関わらず、各キャラの意図が通じたり通じなかったりしている、ということが、僕にとっては新鮮だった。
 通じるという面について最も印象深く感じたのが、誰かの独り言が他の人に聞かれてしまっているシーンの多さだ。いや実際ちゃんと数えなおしてないので印象的だからと勝手に水増しした印象を持っているのかも知れないのだが、とにかく、それを拾うのか、という驚きがあったことを覚えている。漏れた本音が拾われてしまうことは、ゆるく優しい世界では基本的に避けるべきことの筈ではなかったか。そして一方で、ふつうの誤解や勘違いが発生する作品でもあった。つまり、ここでは盤石なコミュニケーションも、盤石なディスコミュニケーションも成立してはいない。にも関わらず、感じる心地よさには確かなものがある。
 それはきっと、何の変哲もない、丁寧なキャラの動かし方によって齎された実感なのではないかと、観続けているうちに思い至った。コミュニケーションの成否について、両側に極端な枠組みでコミュニケーションの失敗の痛みを低減するのではなく、発生したコミュニケーションそれぞれについて、都度最も望ましい結果になるよう、状況を操作していくということ。考えてみればこれは特異な手法でも何でもなくて、おそらく僕が前段で挙げたような処理の方が先鋭化した果ての特殊な世界構築の手管なのであろうが。
 リゼの趣味は周りに少しずつ露見するし、チノの照れ隠しはココアに看破されるし、シャロの嘘は本編で皆にバレる。その全てを伝わらなくすることでも、安心して観られる優しい世界を構築することは可能だった筈だ。しかしそうはしなかった、そうはなっていない、その事実に、僕は今作の最大の魅力を見出したいと思う。
 
 キャラの話とか。ゆるっと。
 最初はリゼ氏〜〜〜萌え萌えでござるぞ〜〜〜って感じだったのだが、途中で完全にココア氏にやられる形となった。ビビオペの時も思ってたけどやはり佐倉綾音の人たらし感は異常。
 シャロ氏は割と苦手っぽいキャラで、うーんこの、って思ってたのだけれど、なんか割とすぐ馴染んでくれた感じ。やっぱりすぐココア氏と仲良くなってたのがすごい印象よかったっぽい(未確認の金髪の人の苦手さって第一にはそういうところであって)。
 千夜氏は一番いいタイミングで的確にブッ込んでくるキャラという印象で。あまり中二ネーミングネタに感じるところはなかったのだが。
 チノちゃんは割とこう、何ですかね、自分も騙せない嘘で強がる時が一番かわいいですね。それをココア氏に悟られて真っ赤になってる時など最高。

 よかった台詞とか、そういう各論についてはパワーが有り余っている時に。たぶん。

ご注文はうさぎですか? 第1羽

 ふーわふわ♪ どきどき♪ ないしょだって♪ と申し上げているのがお解りになりませんか?
 
 ……まず、ご注文がうさぎだった。タイトルの由来が開始4分で明かされるこのスピード感である。
 無論として(これは前回のがをられ感想とも重なるのだけれど)、ひとつの名付けにひとつの由来が対応している必要などないので、ああ、ご注文がうさぎなのだ! と発見させられる瞬間が後に控えているのかもしれない。ちょっと期待しているポイント。
 
 ココア氏について。きんモザでいうとシノみたいな、ある種のネジの外れっぷりを世界を回す原動力に転嫁することで物語に寄与するタイプの造形ではある。……のだが、絶妙に良識を備えていることがかなり好ましく感じられた。
 うさぎを注文する、姉という役割に偏執的に拘る、謎の言語センスでチノ氏を困惑させる。そういった振る舞いに強い個性を滲ませながらも、うさぎを注文した直後にコーヒーそっちのけで触ろうとして、「冷める前に飲んでください」とチノに窘められた時、申し訳無さそうにすぐ応じていた辺り、他者の心の機微にとても敏いか、少なくとも根が善良であることが窺える。あと、あのシーンではうさぎに未練を見せずにコーヒーに集中していたのもとてもよかった。チノ氏のコーヒー淹れる動作から割と手間が掛かっていると知れるあたり、尚更に。あれ、豆が違うってことは、三回に分けて淹れたのだろうし。
 そう考えると、チノ氏にかなり早い段階でお姉ちゃんとして接しようとしていたのも、それなりに彼女の寂しさを看破した、という部分があるのではないかなーとか。ここはまだ推測ですらない当てずっぽうの話だけど。
 また、ココア氏が行き過ぎた触れ合いを試みることで、チノ氏がドン引きすることが可能である(・・・・・)、というのは非常に冴えた関係性だと思う。下でも少し書いたけれど、そうやってチノ氏の側に逃げを打てる余地を作っておくことで、チノ氏の素直さを最大限に出したまま、ダダ甘な百合に寄りすぎない領域に留めておける、という機能の筈なので。
 ……などと考えると、さて、シノとアリスの関係性はどうだったか? などと考えたくなるところ。それはまた後日(あらゆる未来の日付けはすべて後日である)。
 
 チノ氏について。
 まず、寂しがりで素直で感動しいっぽい、というのが重要な気がする。抑揚なく喋る/寒色系の髪色をした/ロリの/突っ込みキャラ、という属性の組み合わせによって想像される綾波レイないしルリルリ及び彼女らの後継であるところの類型によって認識が阻害されかねない、歳相応に素直な振る舞いをこそ注視せねばならない。それはたとえば「わたしを姉だと思って、何でも言って!」とココア氏が抱きついた時の瞳の潤み/頬の紅潮であるとか、「姉妹……ですか」と言ってからのチラ見であるとかだ。
 あとアレ、入浴シーンでの「お話、一緒に寝る、わたしにちゃんと出来るかな」って台詞がもう最高で。ココア氏としては親睦を深めようとしてこう提案しているだけであり、超建設的で死ぬほど楽しい会話がしたいとか二人で寝ることでよい睡眠を得たいとか思っている訳では無論ない筈なのだが(会話したり共に寝たりすること「そのもの」が楽しいのだから)、そんな行いにすら愚直に悩んでしまうこの真面目さと初心さにやはり感じるものがある。またシリアスな話、そういった機会を持てていなかったことも想像される訳で。リゼ氏とはどのくらい親密なのだろう、とか色々想像させられる台詞ではあった。
 
 リゼ氏について。
 ちょ、ちょろいのでは!?????????????????? みたいなのは自明もいいところなので詳しく書く必要を感じない(書いたけど)。
 教官ということだな、と勇んで指導役を引き受けた割に音速でものすごいダダ甘な接し方になっちゃってたり相当早い段階でココアと呼び捨てにしちゃうあたりの、自分のラインの内側に置いた人間にものすごい心を許す感じが大変よい。ここでよそ者は認めないぞと当初は意地を張るキャラだったりしたらたぶんそれなりにストレスだったのだけれど、そうはならなかった。だから、よかった。
 二人で家に残るココアとチノに「楽しそう……」と嫉妬するシーン、カップリング読みできないのが(結果的なものかもしれないとはいえ)絶妙。あそこでどちらか片方に執着したりせず、二人が楽しそうで羨ましい、と思っているらしいのがとてもよく、一日一緒に働いただけでもう感覚的には三人組なのかなーとか思うと頬が緩む。
 あとアレ、ラテアートで戦車作った時の「まったく、そんな巧くないって!」の声色めっちゃよろしいと思う。嬉しさ隠し切れてないですなヌッヒョヒョヒョヒョヒョ〜〜〜といった感じの。
 
 うさぎについて。
 最後まで観てからもっかい見直すと、チノ氏がコーヒー淹れてる時、おそらくタイミングが難しい作業だと思うんだけど、サイフォンを観察しながら混ぜるチノ氏に何度も頷いてるのがすごくいいなーと。ネタバレしてからだとかなり観え方が変わって面白いシーンだと思う。見守ってるんやね。

彼女がフラグをおられたら 二話まで

 まだキャラの名前もあんまり覚えてないのですが。
 どの程度まで異能/異世界の設定を突っ込んでくるのかな、というのと、キャラ造形に見る過去作の影響とその運用の仕方みたいなところに注目して観ているところ。もちろん脳の8割くらいは阿澄佳奈田村ゆかりの声を認識し記憶することに使っているのだけれど、まあ、残り二割くらいでこう。
 お姉ちゃんが割とリアルに突き抜けた強度を有しているっぽいのが気になっていて、というのも竹井10日の描く「だだ甘お姉ちゃん」って少なくともMarronの頃には非常に嫉妬深く独占欲の強い人格をしているってところまで含めた造形だった筈なんですよね。弟が好きな子と幸せになるのを応援したいけど悔しい、って葛藤に苛まれるくらいの弱さはあった。がをられのお姉ちゃんにはそこらへんの屈託が全くないように見えて、なんか眺めてるときんモザのシノみたいな気がしてくる訳です。なんか欠落しちゃいけないものが欠落してるような。
 Marronゲーでもそういうキャラが全くいなかったということはないんだけど、そういうキャラをヒロイン枠に置く、というのは割とびっくりする処理で。内面を掘り下げる方向に行くのか、或いは従来のダダ甘お姉ちゃんとは全く違う処理を見せてくれるのか。かなり気になる。
 あと、男の娘。フラグビンビンなのが割と直感に反した造形という感じがする。というのも、竹井10日作品で主人公は特に理由もなくモテる訳であり(ひまチャきに於いてはモブ男子に惚れられている描写すらある)、だからこそ男友人キャラは話を回すのに徹するため、恋愛面には全く関わらないデザインになっていたと理解してるんだけど、そうすると恵のキャラってなんなのかなーという。尋常な男の娘の扱いとしては身近でモーションをかけてくるけど恋愛に発展しない、無限にラブコメ可能なヒロインというのがまあ常套手段な訳だけれど(ハス太くんのかわいみ)、茜さんとかお姉ちゃんとかがあんなキャラしてるのにベタベタキャラもなにもないよなあ。という訳で、動かし方にかなり興味のあるキャラその2、という感じ。
 
 ところで。
 ニコニコ動画(略さないところに玄妙な怒りの残滓を感じ取って頂きたい)のコメント付きで視聴していたのだけれど、フラグをおられたらってタイトルなのにハーレムじゃん、といったコメントがあって、なんで一話に於いて丁寧にフラグとは恋愛フラグだけではないということを提示してみせたのか、って考えたりしないのかなあと大変絶望的な気分になったとかなんとか。
 敢えて「フラグ」という意味が拡散し多義性を持つジャーゴンと化した用語をそのままタイトルにブチ込む以上、それは逆説的に作中におけるフラグという語の意味するところが作者によって操作される範囲が非常に広いことを意味する。死亡フラグかもしれないし恋愛フラグかもしれないし友情フラグかもしれないし―――そもそも、フラグという言葉が颯太の目にするあの旗のことをのみ意味すると、なぜこの時点で断定してしまえるのか。より大きな/或いは小さな枠組みで、フラグという言葉が意味を持つ可能性は考えないのだろうか?
 ……なんでこうまで惨憺たる気分になるかと言えば、大多数のアニメってのは週区切りで断続的に視聴される形式をとっている訳で、そのような状況下でそんなこと言い始めたら構成も何も無くなっちまうだろって思ってしまうから。早漏にも程がある。そんなに予定調和が好きなら予定調和的に裏切られることの可能な鬱アニメにでも耽溺すればよい。いつ/どの方向に転ぶかわからない不安定さにも耐えられないのなら、そうすべきだ。

向日葵の教会と長い夏休み

 某氏の導きによりプレイに至る(えっち伝道師氏に敬礼!)。ありがとうございマックス。
 以下感想です。無駄に長い。 
 
 
 まず、教会で過ごす仲間の中に雛桜という存在を据えたこと、それ自体が既にひとつのファインプレーだったよなー、というのがあって。
 神父という保護者と、雛桜という子供との間で、陽介たちは、ある時は神父のもと未だ幼い存在として大人を目指し、またある時は雛桜を相手に、既に子供ではない者として道を示す。何か大きな出来事を経て大人になる、といった世界観ではなく、先達を真似することで、少しずつ大人になってゆく。そして、彼らの未熟さは信頼によって許され、見守られる。それはきっと、既に大人になった彼らも同じように繰り返してきたことで。そんな、優しい世界観。
 その、幾許かの厳しさを孕んだ優しさこそがこの作品の最たる魅力であり、そしてそれを盤石にするにあたり、モブの子供ではなく、雛桜というヒロイン格のキャラを配置したことが、ただひたすらに巧かったと、僕は思う。
 彼らの輪の中には常に雛桜がいて、陽介たちはいつだって、彼女に対しては大人として振る舞うことになる。未熟さを描く上でも、そして勿論、成長を描く上でも。彼女が常に彼らに囲まれていたことは、とても強く働いていたように感じる。
 陽介たちが神父や他の大人から受け継いだ知恵を雛桜に受け継ぐ時、それは郷愁に満ちた回想として、陽介たちの成長の証左として、そして雛桜という新しい仲間が大人になろうとする第一歩として、いくつもの色を湛えて機能する。教会と共に過ごす最後の夏休み、その愛惜に満ちた物語に於いて、過去と未来を同時に意識させる構図は、極めて強く働く。そんなふうに、思う。
 
 個別のルート感想。
 
・金剛石√
 ぶっちゃけつらい部分が結構あったり。それも割とオールドスクールな泣きエロゲ的なつらさ。
 そろそろ身分違いの恋でヒロインが実家に軟禁されたのを連れ戻しにいって試験を受けさせられたり嘗ての約束が発覚してどんでん返ししたりする展開はそれ単体だと食傷気味だよーという認識が敷衍してほしいというか、2007年くらいまでしかまともにエロゲできてない人間でもこれ見たことあるでござる……ってなっちゃう展開をいまベタにかまされると中々に玄妙なツラをせざるを得ない訳です。もちろん良い天丼と悪いマンネリの区別をどこで引くつもりだよオラッという問題はあるんだけど。そう考えると展開抜きにして楽しめるほど金剛石さんに乗れなかったというのが一番致命的だったような気がするな。
 金剛石さんの極端な性知識の薄さは、個人的にはかなりキツい水準のそれではあった。神性を湛えるほどの無垢さがあれば、とも思ったんだけど、金剛石氏はむしろ俗っぽい方面の人格してるしなあ……。平沢唯さんの方がたぶん神性の面では300%くらい強いんだけど、平沢唯さんは性教育程度の知識はまあ持っててもおかしくないよね、みたいな。何の話だ。
 あと、思春期が遅れてるような感じで鈍いヒロインをどう惚れさせるのかなーというのが中盤〜後半の技術的な興味としてはあって、実際、そこを安直に「ああ、もう好きになっていたんですのね」みたいな自覚で終わる展開にせず引っ張っていたところに結構期待していたんだけど、なんか最終的にロジックがよくわかんなくなった。たぶん僕の読解力と集中力の不足なのでそのうち復習したいところ。
 そういえば、最初に書いたような既視感からの落胆には、今作が高解像度で鮮やかなグラフィックの見栄えする作品だったから、というのも大きく寄与しているように思う。ワイド解像度だと現代的なので何かしら新しいシナリオが読めると脳が勝手に期待するのな。
 
・ルカ√
 全編最シコ台詞こと「セックスしたい」がぶっ放された記念すべきルート。
 ……金剛石√もそうだけど、プレイヤーの精神に負荷を掛ける必要あるの? って思ってしまう部分はかなり強くて、なにせ、この夏休みが終われば教会は取り壊されてしまうのである。どんなに楽しいことしかない夏休みであっても、否、楽しいことだらけであらばこそ、いずれ来る別れの衝撃はどこまでも高まってしまうという構造は共通している。なればこそ、約束された別れを前に無限に高まる郷愁と焦燥と幸福に塗れてやるぜーとこっちがスタンバイ完了している時に、ヒロイン周りで不穏な展開をされると、いや、つらくあるべきはそこではないのでは? と思ってしまう。
 「いま」「この瞬間」が既に、そう遠くない未来に思い出になってしまうことが確定しているという悲しさ、それを描くための夏休みじゃなかったの? って。
 まあ、僕の偏った嗜好が強く反映されたdisであると共に、終わりの郷愁をシナリオに活かすのは雛桜√だけ、という判断から他の√では温存されていた可能性もそれなりにあるだろうので(シンセミアで某妖怪との戦闘が銀子さん√で描かれなかった件を思い出しますね?)、不当な言い草ではあるかも知れない。個人的な好みとしても、同じ構造で違う論理を展開するような作品の方がツボだ、という事情もありつつ。
 まあそんなことは抜きにして、ルカさん超えっちですよ。いやHシーンではあんまり抜けなかったんだけど。全体的に、クールなお姉さんキャラとして意地を張ってみたけど実際セックスしたくてたまらなかった、みたいな独白が大変にペロペロしがいのあるキャラではあり、特に初エッチ直後のおっぱい吸われて悶々としながら今日は眠れなそうとか言ってるシーンなどは脱帽もの。裸立ち絵でもないのに超えろい。必見。
 青薔薇は本当にいい奴だなこのやろうという感じで。幸せそうに消えていくんじゃねえよまだ何もしてねえだろうが、みたいな。かっこ良く去りやがってクソが救済させろよ的な。西園さん√を若干思い出したりね。切り口の違いに着目すると面白いものが出てくるかも。
 あとアレ、姉になることを決心する年下の少女ってモチーフはよいですね。大人のように振る舞えば大人であり、人間のように振る舞う猫は人間であり、姉として振る舞う年下は姉である。本人の決意と振る舞いが何よりも強く優先される世界観に則した、リリカルな決意であったと言えましょう。
 
・詠√
 ダークホースその一。完全にやられた。
 共通√ではあんまり好きじゃないキャラ造形だなーって感じで。一歩引いた感じのキャラってそんなに好きになれない率が高くて。実際、金剛石とルカの√を終えてからも、早く雛桜√入りたいなーと思っていたのを覚えている。のだが。
 かつて交わした約束と、いつか還るべき場所へ。未来へ進むために、もう一度、本当の形では果たされなかった約束を再演する。想い出を紡ぐ猫の話。そのように振る舞うことの真贋。フレーバー程度かと思っていた伝奇的な要素が最終的にひとところに嵌る爽快感。なるほど、たかあき氏も褒める訳だ。終盤の回想は本当に切なかった。
 技術的には、叙述トリックの対象をヒロインにするんだー、というのが個人的な驚きポイントではあった。ADVのシステム上、まず叙述トリックを仕掛けやすく/効果が高いのはプレイヤー(或いは視点キャラ)であり、そこで敢えてヒロインの方を対象として取るというのがトリッキーな処理に見えた形。なんだか倒錯した感覚のような気もするけれど。
 彼女の気高さに乾杯。
 
・雛桜√
 めっちゃイラストが綺麗。表情とかも含めて。原画さん追ってく構え。
 未分化の親愛と恋愛がどう相転移していくのか、みたいな部分の処理はちょっと唐突というか、展開を長く割いた割にいまいち説得力を読み込めなかった気はする。眠気を押してプレイしてたのでそのせいかも知らんけど。誰か教えてください。
 それ以外の点ではもう、すばらしみに満ちている、としか言いようがない。成長した雛桜の造形はもうマジでストライクだったし声も最高だったし。
 重い過去まわりの展開は若干胃にもたれたものの、大人として振る舞うものを描く物語に於いて、大人として振る舞えなくなってしまった年上を描くこともまた必要だったのかな、などと適当に思ったりなんだり。
 詠さんもそうだけど、よかったと思ってる√のが書くこと少ない、というのはすごいなんかアレだな……。
 
・月子ちゃん
 √ないけど。ないけど???
 本当に攻略できないんだなー、と。好きなキャラだったので残念に思う気持ちがありつつ、でも拘って非攻略キャラにしてくれたのだとしたら、それもいいかな、とも思う。
 ひまなつは過去の約束の話である、とか、そんな感じの話。残念ながら、現在と未来だけでは足りなかったのだろう。