大図書館の羊飼い 断片的な記述

 総論を書く前に散文的にいま考えていることを。
 
 全体を通して、他人を裏から導き/操作することは否定される。導き手としての意思は生徒会副会長の意図であったり、或いは直接的に羊飼いの思想であったりといった形をとって作中に現れる。それらは主人公による選択と救済といった尋常なADVを構成する上で常套手段と化した処理、つまり有限な選択肢の経時的な積み重ねと大きな救いを最終目的として駆動される物語の形式とに対し非常に相性良く馴染むが、その癒着を丁重に退けているところにこそ今作の特徴はある。
 他人を救うことは常に日々の振る舞いや相手が/皆が/皆のいる場がただそこに居る/在ることに拠って為され、そこではドラスティックな問題の発見や解消は描かれない。それどころか、問題はしばしば当の本人にすら明確に意識されていて、対処法すらも本人が知っていたりする。桜庭が己の弱点を仔細に語ったり、鈴木が自分の悩みの小ささを理解しつつも「賭けている」などといった強い表現を以ってその克服に挑まねばならなかったりと、悩みは常に交換価値の多寡ではなく本人の衝迫の強弱、主観的な大小という指標でのみ評価される。解答は既に手渡されていて、あとは踏み出すのに必要な決意が用意できるかどうかが問題だ。友達や恋人、先輩後輩といった関係性は、そんな決意を後押しするためにある。彼らの説得が、激励がしばしば綺麗なロジックを持たない、自分語りの形をとることを想起しよう。論理ではなく、共にいること、想うこと、が説得的なのであるという世界観。
 
 本心と言葉と振る舞いの齟齬を認める、という意味においてみんな大人な印象だった。
 本能的な/衝動的なレベルで何を思っているか、自分がどう考えていると欺瞞したいか。他人に対してどう意思を表明するか。そういった多層的な精神状態の存在を相互に意識し、かつ、それらに画一的な優先順位を設けなかったところに本作の会話の肝がある。踏み込むか否か。嘘を尊重するか否か。気付いても知らない振りをするか否か。そうやって距離をとった交感を為し得るだけの分別を持ち、日常がそのように維持されるからこそ、精神的な余裕が失われたシーンの切迫には迫真性が宿る。また、桜庭と御園の会話を鑑賞する際、このような視座は有用だろう。
 
 ナナイが筧の父親である、ということはつまり小太刀の義父でもあった筈で、たぶんおそらく両者の間に面識くらいはあったんだと推測できる。なかったとしても、書類上の父娘関係ではあった筈だし、そういった事柄を無視したとしても、上司が恋人の父親であるという展開は十二分にスキャンダラスな筈だ。尋常に考えれば小太刀√の大きな山場になり得たこの秘密を、しかし実際には全く問題として扱ってない、というところに注目したい。
 とはいえここらへんの論理はまだ詰めてないので、引き続きの考察を要するところだろう。
 ナナイは小太刀のことをどう思っていたのか、というのは大変に興味深い話であって、もしかするとナナイが導いていたのは小太刀で、非羊飼い√に於いてエンディングで筧が皆に小太刀のことを覚えているよう誘導したことまでも実は、などと妄想する余地は潤沢にあり、つまりSS書きの皆さんカモンという話だ。

 しかし小太刀まわりでロジックが稠密さを失っているような印象は非常に強くて、そこをなんとか言語化できるようにいま諸々をでっち上げているところだ。まだ暫く掛かりそうな気がする。まずは感想ログの精査、それから拾い読みでの再プレイか。