2015年夏アニメの雑感

 切らずに観てるものリスト。
 
Charlotte(9話まで)
 大変楽しんで観ている。
 基本的に主人公の内面からみた実感を前提に言行を評価していく立場を取っているので、あんまり唐突さとか説明不足な印象を覚えたことはないかな。強いて言えばやっぱり7話のゲーム〜DQN狩りあたりには少しロジックの歪みを(おそらく勝手に)感じる。
 
・ニンジャスレイヤー フロムアニメイシヨン(21話まで)
 最終決戦に入ったあたりから雑な印象はある。
 こうカツカツだとロブスターとかやってる場合じゃなかったのではって思ってしまうなあ。或いは面白そうなエピソードだけ拾っていくらでも続編作れるよう開放端にしておくって手でもよかったような。
 
のんのんびより りぴーと(7話まで)
 大変宜しい。
 ほたるんの弱さ/幼さとこまちゃんの強さ/優しさとなっつんの賢さ/優しさを過去の話の中で語ることにより、彼女らの魅力が語り直され、既に観終わった一期についても奥行きが加わる仕組みになっている。ほたるんはこまちゃんの格好良さに惚れ込んだのだし、なっつんの優しさは細やかな気配りに下支えされている―――といったように。そのような再発見の場において、ただひとりれんちょんだけは変わらない。
 
オーバーロード(8話まで)
 モモンガ様に萌える話。
 現代日本人が異世界に行くとすぐ政治や農業のシステムがプリミティブな世界で十全に機能するよう改革を始めてしまうんだけど(偏見)、そしてそういうのが強く快楽を齎すこともまた確かなんだけど、そういう発想を一切採用せず、己の目的をもって世界に踏み込んでいくだけだというのは非常に正しい感じがある。戦力比としては完全な蹂躙なんだけどそういう問題では勿論なくて。
 
モンスター娘のいる日常(8話まで)
 もっと単眼が喋ってくれてもいい。キャラとしてはケンタウロス氏が好き。
 大変テクくてかなり正解を選んでくれそうな信頼感がある分、卵産みの回みたいなラブコメ厨的観点からはスレスレ通り越してアウトな処理をされたりすると落差で過剰に駄目っぽく観えるというのはある。キャラ増やせば増やすだけキャラのかわいさの演出は難しくなると思うので後半には技巧的な期待を寄せておきつつ。
 
ToLOVEるダークネス2nd(8話まで)
 観測範囲内で僕しか観てねえ。多分。
 エロとかいらないのでキャラの自意識の揺れをみせて欲しい、という意味ではヤミとメアのぎこちない対話とかネメシス絡みで弱気になるモモなどが大変おいしゅうござるという感じではある。西園寺とララが完全にモブと化してるのはいい加減マジでどうにかした方がいいと思う。
 
てーきゅう(57話まで)
 てーきゅうの感想とかどう書けばいいのかわかんねえ……。
 五期は主題歌もアレだしまりも先輩フィーチャーかと勝手に思ってたんだけど、実際にはゆりちゃんとかなえ先輩を主軸に話を回してる……のかなあ。かなえ先輩のポテンシャルを結構低く見積もっていたことを思い知らされた。なすの先輩は案外役割を持てないっぽいという事実も明らかになってる気がするけど、そこらへんは自覚的に回してるように観えるので、期待。
 
WORKING!!!(8話まで)
 佐藤さんに萌えるアニメですね。
 相馬さんの強度を下げつつ山田兄を導入、各キャラに少しずつ察しのよさと勇気を分配して、意が通る世界にしてあるってことなのかなあ。話数結構余裕なさそうだけど、最後まで綺麗に閉じてくれるなら文句はない。
 
干物妹!うまるちゃん(8話まで)
 お兄ちゃんが大好きな妹の話ということに(途中で)なった。
 妹はお兄ちゃんが大好きなんだよ、というコードを敢えて拒否するという意味では俺妹に似た期待を寄せる対象ではあったんだけど、途中からうまるちゃんはお兄ちゃんが大好きということになってたのでそういうチャレンジャブルなサムシングを期待する向きにはあんまりよくないかもしれない。個人的には収まるべきところに収まったかなあという(そもそも原作漫画でどう推移したのかもよくわからんのだが)。
 橘シルフィンフォードちゃんは今期最萌えキャラ確定。
 
わかば*ガール(8話まで)
 途中からまともに観られるようになった。日々是修行ってことだね。
 突っ込みが時折ガチで辛辣なんだけど、きんモザほどにはディスコミュが基調というわけではなくて、そこにつらさが生まれてるような気はする。気のせいかもしれんが。
 
・実は私は(8話まで)
 キャラが出揃ってからは非常によくなったんじゃないかなと思う。メガネ幼馴染氏の話なんかは相当厳しかったし。
 ぽんこつ揃いにすることで恋愛を遅滞させるというアレ。
 
ミス・モノクローム(5話まで)
 おはクローム
 一期とは良くも悪くも全く違う作品になってるっぽいので一期で敬遠してた向きにも薦めたい。
 
・QTFII(9話まで)
 声優ラジオってこういう感じなんですかね(聴いたことなし)。
 細谷佳正氏の発言が滑るかどうかがバンブルビーとロックダウンの反応次第、というのはちょっとどうかなという気もする。生殺与奪を握りすぎというか。もうちょっと自然に絞り出されたオイルを鑑賞したいですよね、というのはあるよね。

Charlotte 8話まで(乙坂有宇について)

 すげー話が動きそうなので現状でのまとめを残しておく的なアレ。備忘。
 例によって例の如く自分用メモなので不親切な部分だらけですがなんかあったら応答とかはするかもしれません。しないかもしれません。
 
 めっさ長くなりそうだったのでひとまず乙坂兄への言及だけ。
 
 ……乙坂に関しては一話の時点から既にゲスさよりも異常さの方が強く印象的で、能力の濫用によって獲得せんとしたものが成績優秀者としての地位やスペックの高い女性を恋人とすることそれ自体でしかなかったことなどは極めて歪であるように僕には思われる。他人の歓心を集めるために能力を乱用して不当な地位を得るという振る舞いだけ見れば確かに小者であるように思えるが、しかしそこで志向されているのが徹頭徹尾他人の歓心でしかない/そこに留まり先に行かないことは、注目に値するんじゃないだろうか。
 乙坂は承認されることの歓びに突き動かされているようには見えないし(いい気になっているような描写はあれ、それが行動原理として機能するほど強いものとは思われない)、白柳との関係についても恋人になる/であることのステータスのみを考慮していた。白柳から決別を言い渡されるに至ってもなお短い間とはいえ自分に好意を寄せていた美少女の人格に関しては全く哀惜の念を見せず、ただ「優れている筈の自分がフられる」という事態のみを危惧して見苦しく取り繕うというのは、クズなどという生易しい形容で表現できるものではない、もっと重大な欠落を感じさせるものだった筈だ。
 でまあ電波なんだけど、乙坂有宇は強く他人の価値基準を内面化していて、そこに彼独自の判断が介在することはない―――成績がいいのは賞賛されるべきことで、美人の恋人がいることは羨望されるべきことだから、そうする―――といった解釈を僕は採用したい。短時間の憑依という能力によって自己を外部に限りなく広げ続けてきた彼がそのような空虚さを己の中心に抱え込んだという理解は、図式的に過ぎるにせよ、それなりに便利な物差しとして機能する筈だ(とゆー感じでスタートしたのだけれど、実際のところ、上述したような空虚さは能力によるものというよりも、もう少し彼の与り知らぬ要因に下支えされたもののような気が8話時点ではしてるんだけど、とりあえず書き残してはおく)。
 そんな乙坂が一話時点で既に裏表のない心配の言葉を投げ掛けたり、心中げんなりしている甘いオムライスを美味しいと誤魔化したことから、彼の妹への情の深さについては容易に酌むことができる。また、生徒会への意に染まぬ所属の理由が、補助金によって妹を楽にさせられるという甘言だったことも想起されるべきだろう。乙坂有宇という、人の只中にあって自分自身を喪失してしまうような人間が、取り繕うことを以ってのみ人と対峙するような振る舞いを自己に許すような人間が、何を意識するでもなしに自分らしく触れ合える対象。彼にとっての日常とは妹との二人暮らしをのみ指すのであろうし、そう考えることで、妹を失う前後の彼の狂乱の、その唐突さは強く減じるだろう。失いかけるまで、或いは失って初めてその存在を強く認識するというのは、それだけ妹の存在が彼にとって身近で、意識にも上らない程に、彼を形成する世界そのものだったということだろうから。大切な肉親の喪失は彼の世界観に照らし合わせて彼に衝撃を与えたのではなく、世界観そのものが失われるような結果を齎した、ということ。後に残ったのは妹の存在に拠って形成されていた部分をごっそりと失った、虚ろな乙坂有宇の残骸だった―――と解釈することで、白柳の説得を飽くまでも理路整然と切り捨てていたあのまともさが乙坂の自動的な部分の発露であることや、また彼を激昂させた白柳の「心が病む」というフレーズがどれほど彼の癇に障ったかなどを整合的に解釈することが可能だ。病むような心を失っていた(或いは、見失っていた)からこそ、彼は絶望に襲われるのだから。
 
 ……という風に繋げていくと、七話後半でゾンビゲーに破壊衝動を刺激されていたような描写がどうにも綺麗に定位しきれなくてもにょる。あそこからDQN狩りに展開していくので暴力に魅入られることには意味を見出したいんだけど。定型的な描写に過ぎないというのはまあそうかも知れないし些細な事柄でしかないというのは理解できるんだけど、少し気持ち悪さが残る。麻枝准の有する個人的なリアリティ上あれは自然なことだったのだ、という雑な把握がどうも一番それらしく感じられてしまうのだがあんまりそういう解釈に与したくないので(正誤性ではなく趣味、というか意地の問題として)。

大図書館の羊飼い 断片的な記述

 総論を書く前に散文的にいま考えていることを。
 
 全体を通して、他人を裏から導き/操作することは否定される。導き手としての意思は生徒会副会長の意図であったり、或いは直接的に羊飼いの思想であったりといった形をとって作中に現れる。それらは主人公による選択と救済といった尋常なADVを構成する上で常套手段と化した処理、つまり有限な選択肢の経時的な積み重ねと大きな救いを最終目的として駆動される物語の形式とに対し非常に相性良く馴染むが、その癒着を丁重に退けているところにこそ今作の特徴はある。
 他人を救うことは常に日々の振る舞いや相手が/皆が/皆のいる場がただそこに居る/在ることに拠って為され、そこではドラスティックな問題の発見や解消は描かれない。それどころか、問題はしばしば当の本人にすら明確に意識されていて、対処法すらも本人が知っていたりする。桜庭が己の弱点を仔細に語ったり、鈴木が自分の悩みの小ささを理解しつつも「賭けている」などといった強い表現を以ってその克服に挑まねばならなかったりと、悩みは常に交換価値の多寡ではなく本人の衝迫の強弱、主観的な大小という指標でのみ評価される。解答は既に手渡されていて、あとは踏み出すのに必要な決意が用意できるかどうかが問題だ。友達や恋人、先輩後輩といった関係性は、そんな決意を後押しするためにある。彼らの説得が、激励がしばしば綺麗なロジックを持たない、自分語りの形をとることを想起しよう。論理ではなく、共にいること、想うこと、が説得的なのであるという世界観。
 
 本心と言葉と振る舞いの齟齬を認める、という意味においてみんな大人な印象だった。
 本能的な/衝動的なレベルで何を思っているか、自分がどう考えていると欺瞞したいか。他人に対してどう意思を表明するか。そういった多層的な精神状態の存在を相互に意識し、かつ、それらに画一的な優先順位を設けなかったところに本作の会話の肝がある。踏み込むか否か。嘘を尊重するか否か。気付いても知らない振りをするか否か。そうやって距離をとった交感を為し得るだけの分別を持ち、日常がそのように維持されるからこそ、精神的な余裕が失われたシーンの切迫には迫真性が宿る。また、桜庭と御園の会話を鑑賞する際、このような視座は有用だろう。
 
 ナナイが筧の父親である、ということはつまり小太刀の義父でもあった筈で、たぶんおそらく両者の間に面識くらいはあったんだと推測できる。なかったとしても、書類上の父娘関係ではあった筈だし、そういった事柄を無視したとしても、上司が恋人の父親であるという展開は十二分にスキャンダラスな筈だ。尋常に考えれば小太刀√の大きな山場になり得たこの秘密を、しかし実際には全く問題として扱ってない、というところに注目したい。
 とはいえここらへんの論理はまだ詰めてないので、引き続きの考察を要するところだろう。
 ナナイは小太刀のことをどう思っていたのか、というのは大変に興味深い話であって、もしかするとナナイが導いていたのは小太刀で、非羊飼い√に於いてエンディングで筧が皆に小太刀のことを覚えているよう誘導したことまでも実は、などと妄想する余地は潤沢にあり、つまりSS書きの皆さんカモンという話だ。

 しかし小太刀まわりでロジックが稠密さを失っているような印象は非常に強くて、そこをなんとか言語化できるようにいま諸々をでっち上げているところだ。まだ暫く掛かりそうな気がする。まずは感想ログの精査、それから拾い読みでの再プレイか。

異能バトルは日常系のなかで 鳩子氏について

 だいたいTwitterで書いた通りの話で、付け足すこともあんまりないんだけど、あんまりにもあんまりな読みが視界に入ったので。
 啓蒙行為への情熱とか別に持ってないけど、ああいう読みとは距離を取りたいということの表明くらいはしておく。これを読んだ誰がどう思うかは知らん。そういう意味では、正しく自慰行為と思ってもらって差し支えない。

 寿くんの言ってることはひとつもわかんないよ!
 寿くんが良いって言ってるもの、何が良いのかわかんないよ!
 わかんない! 私にはわかんないの!
 (中略)
 内容もちゃんと教えてくんなきゃ意味がわかんないよ!
 教えるならちゃんと教えてよ!
 神話に出てくる武器の説明されても楽しくないよ!
 グングニルもロンギヌスもエクスカリバーデュランダルも、天叢雲剣も意味不明だよ!
 何が格好いいのか全っ然わかんない!
 他の用語も謎なんだよ!
 原罪とか循環とか創世記とか黙示録とかアルマゲドンとか、『名前がいいだろ』ってどういうこと?
 『雰囲気で感じろ』とか言われても無理だよ!
 相対性理論とかシュレディンガーの猫とか万有引力とか、ちょっとネットで調べただけで知ったかぶらないでよ!
 中途半端に説明されてもちっともわからないんだよ!
 ニーチェとかゲーテの言葉を引用しないでよ!
 知らない人の言葉使われても、何が言いたいのか全然わかんないんだよぉ!
 自分の言葉で語ってよ!
 お願いだから私のわかること話してよ!
 中二ってなんなの? 中二ってどういうことなの?
 わかんないわかんないわかんないわかんない、わかんない!
 寿くんの言うことは、昔からなにひとつ、これっぽっちも、わかんないんだよぉ!

 アニメーヒョンから聴き取りで写したので、間違いや原作との表記の齟齬があったりするのはご容赦頂きたい。指摘と批判は受け付けます。
 
 で。
 前提として、鳩子氏は中二病一般を批難したりはしていない。メタな読みとして拡大解釈することの是非を問う前に、そもそも彼女が問題としているのは中二病の価値のあるなしや恥ずかしいか否かといった事柄ではない、ということは確認しておきたい。
 彼女が主張したいのは極めてシンプルな事柄だ。「主人公と楽しい時間を過ごしたい」。理解したい、と言ってしまっても構わない(当然ながら楽しい時間を過ごすことと相互理解が成立することとは無関係にそれぞれ成立する―――が、それが語られるのは7話終盤であり、この長台詞の時点の鳩子氏の認識としては、それらは直結するものである。そこからの論理の転回こそがひとつの山場なのだから、その正しくなさはまず肯定されるべきだろう)。
 彼女の欲求は主人公の発話を理解したいという一点に尽きる。だから、彼女の台詞は「楽しくない」「意味不明だ」「わかんない」であって、「格好悪い」「おかしい」ではない。特筆すべきは、中二病をやめろという旨の台詞がないことだ。
 ここで問題とされているのは鳩子氏が主人公の語る中二病的ワード/ストーリーの格好よさを理解できないことであって、中二病そのものが良いか悪いかなどは端的にどうでもいい話でしかない。そもそも、鳩子氏の言う「中二病」とは、主人公が語るなんだかよくわからないものに貼られたラベルでしかない。これまでの話で何度も、主人公の―――殊に、「中二病かよ!」というツッコミを期待した―――振る舞いを、そうと気付くことすら出来ず、天然で潰してしまったのは誰だったのか思い出そう。彼の振る舞いを馬鹿にしていいものだと判じられる程度の理解すらできなかった、千冬ちゃんにすら完璧に出来ていることが覚束ない、その事実こそが彼女を苛み続けてきただろうということを認識しておく必要がある。
 たとえば仮に、彼女だけがおかしくて、作中の中二病的な振る舞いを皆がやっていてそれを鳩子氏だけが理解できない世界だったとしても、話は全く変わらない。何なら、鳩子氏だけが中二病で、主人公の語る普通の話の面白さが全くわからないとしても同じだ。彼女にとっての懸案はひとえに幼馴染の発話が理解できないことであり、彼と彼女のどちらが一般的な尺度から異常だと判じられるか、彼と彼女のどちらが多数派に属するか、などは全く問題ではない。これは二者の間で閉じたプロトコルの話であり、僕が以前、中二恋を引き合いに出したのもそのためだ(中二病、というか邪気眼の話をする上での基本中の基本であり、被ったとわざわざ指摘するような話でもないのだが、まあ)。
 このように考えた時、立て板に水の、流暢すぎて悪意的を通り越してギャグに聴こえすらする、中二病の類型に対する批判などは非常に示唆的だ。そうやって一息に喋り続けてしまえる程に、彼女は彼が語った「わからない」ものごとを記憶し、理解しようと努力していた、ということが理解される。意味のわからない、楽しくない、でも好きな相手の語ってくれた話を、彼の語り口まで含めて覚えている、なんてことができるだろうか。中二病さえなければいいのにとか、中二病をやめてくれないかとか、そんなことは一言も漏らさずに、ただ一人で理解を試みる、などという行いが、常人にできるものだろうか。
 僕は七話〜八話での話運びを肯定はしないし、それどころかここで明確にハンドリングを誤ったと考えている(僕の脳内のさいつよな異能日常を実現する理路はもう存在しない!)。だが、ここで垣間見えた彼女の一途さはとても好ましく、尊いものに思えた。仮に今作の物語を忘れても、僕は鳩子氏というキャラクターのあの叫びを忘れないだろう。幼馴染の少女が発火した、あの瞬間の光だけは。
 
 このような見地に立った時、あの長台詞をメタな中二病への批判であると、大多数に向けて開かれた言葉であると、そう判断することは肯定しがたい。あれは櫛川鳩子が安藤寿来ただ一人に向けて放った言葉であって、僕や君や彼ら大勢に向けた言葉ではない。そのような観方は、彼女の気高さを嘲笑うものだろう。
 馬鹿にされているのは僕でも君でも中二病の人々でもなくて、彼女だ。そのことが、僕は許せない。
 
*追記(2014/12/07)
 コメント反応。なんつーか絶望してます。

mahiru123 相手が関心を持ってることに興味を持って自分で調べることもなく、むしろ相手の知識を馬鹿にして、相手の趣味を否定し、自分の理解出来る話をしろと。とても人間的で理解はできるが好感は持てんな。

 国語の初等教育を受け直すことをお勧めします。
 いや本当に。誤読どころか論旨と正反対のこと書いてますよ。どうやったらそんな解釈ができるんだろう。
 

rag_en いやいや。このアニメで「メタ視点」を排除して見るのはどうなん?まぁ止めはしないけど。

 端的に詭弁なのでお話になりません。詭弁と言って悪ければ、主語が大きすぎて何も言えていないに等しい、とでも言っておきましょう。
 この文章では、引用した長台詞に於ける櫛川鳩子の振る舞いを現実世界の中二病、もとい邪気眼批判に拡大すること、或いはそのような意図を作者が持っていると見做すこと、についてのみ批判しています。主人公の振る舞いが邪気眼概念の取り扱いに関してメタな意味を持つこと、また表題に含まれる「異能バトル」「日常系」という概念の対置、他にはまあ異能の内容と人格との連関の薄さだとか、無数にメタ読みできる要素の散りばめられた作品ではありますし、そんなことは前提に過ぎません。だからこそ、メタ読みを許さない強度を持ったシーンはその強度を尊重すべきだ、と言っています。
 頭が悪くて(或いは長文が読めなくて)理解できないと困るので簡単に繰り返しますが、「このシーンはメタ読みさせない、本編中の論理だけで完結している」からこそ善いのだ、ということを言っています。いいですか? 採択されうる道筋のひとつとして、みたいな話ではありませんよ?
 適当な煽りとして書いたならまあはてブなんてそんなもんだよねーという話ですが、まじめに書いてるなら頭の出来を疑います。煽りとして書いてるのであれば人格を疑います。どっちにしても普通にゴミだと思います。
 
 なんで本文中でリンク貼らずに引用したかというと、クソすぎて晒し者にしたかったからです。それ以上の意味はないですし、おふた方に考えなおしてほしいとか、謝罪してほしいとか、対話してほしいとか、その他ありとあらゆる僕に向けてのアクションを期待するつもりはないです。
 単純にこうやって晒して自分で削除できない場所に浅慮の結果を保存される恥ずかしさを味わって貰えれば、それは最高に嬉しいなって。
 
*追記(2014/12/22)
 コメント反応。とりあえず現状ワーストです。

amamako 面倒くさい人たちだなぁ。/でもま、昔のエロゲ論壇ってこんな漢字だったよね。keyとか絶賛していた人らの。そういう意味では、古き良き(?)はてな村なのか

 論旨に対する肯定か否定かかも判らないし、「人たち」の範囲も判然としない悪文ですが、とりあえず書き手の立場に関係ない部分について言及します。
 端的に卑怯な物言いです。書いてある内容にたとえ的外れであっても言及しているという意味では、上に挙げた二人の方がまだマシであると言わざるを得ません。これは仮にこの人が僕を全肯定する立場であっても同じことです。言及の姿勢として、許しがたいほどに醜悪です。
 僕ははてなの慣習全般に否定的ですし、殊にその中でもはてブで適当なレッテル貼りを繰り返す類の阿呆には心底うんざりしています。つまり、この人のような。初手から相手を見下し、関心のない問題についてレッテル貼りで構図を矮小化する、こういう振る舞いこそが害悪であり、唾棄に値すると僕は考えます。
 
 上記言及の強度を下げる余計な蛇足(重言)。蛇足なので文体も崩れる。

自分たちと異なるものであっても、(それが普遍的人権を犯すものでない限り)許容する、そういう社会を作る事こそが、結局、私達全員が幸せになる、一番の近道のなのです。
そしてそういう社会がこの国に作られる可能性があるなら、僕は、まだこの国に希望がもてます。
( http://amamako.hateblo.jp/entry/2014/12/13/135332 )

 keyとか絶賛していた人らの、と訳のわからないレッテル貼りで見ず知らずの人間集団を馬鹿にしてしまえる人間が多様性を語るというのはギャグか何かですか。
 いやそもそもkeyとか絶賛していた人らを馬鹿にしている時点で善くないんですけど。自分の中の「よくないもの」を所与として相手に属性付加しバカにする、それって完全にセクシャルマイノリティを迫害するための常套手段であり正にあなたが批判してる振る舞いそのものちゃうかったんと思っちゃうんですが、自分の暴力は綺麗な暴力だと思っちゃうタイプですの?
 無意識にやってるなら本当に黒須太一が嘗ての親友に投げた言葉を引用したくなりますね。これは本当に。
 
*追記(2014/12/30)

kyuusyuuzinn 「あれは櫛川鳩子が安藤寿来ただ一人に向けて放った言葉であって、僕や君や彼ら大勢に向けた言葉ではない」 結構当たり前のことを言ってるというか、それ以外の解釈があり得るのか?

 無論として、当たり前のことではないです(ここで否定したような読み方も処理の積み重ねによっては正当性を持ち得た、ということ)。誤認を指摘しつつ、本編では当たり前のことではないことが敢えて選択的に採択されていた、そのことの価値について論じる文章でもある、ということをまず認識してほしい。
 一対一の発話は当然ながら個が個に行うものだけれど、それが物語という経時的に積み重ねられたフレーム、或いは作品という構造を通すことでメタな意味を持ちうるということをまず認識せねばならない。エヴァ旧劇の実写パート周りでのレイやシンジやユイやカヲルの発話を外部の事情と結び付けずに読むというのは端的に筋が悪いとしか言いようがない、みたいな話ですね。
 ”それ以外の解釈”については、自分で流れくらい調べてください、としか(それがあったから書いた、ということは相当な阿呆でない限りは読み取れると思うんだけどなあ……)。いっちょ噛みしたいならそれが最低限の慎みだと思いますよ。それは喧嘩を売る側が自分で明らかにしておくべきことです。

異能バトルは日常系のなかで 7話

 えー、そっち行っちゃうのー、という感のないではなく。
 次回で雰囲気が日常系から逸れてたらだいぶあかんなーという感じ(自分でも三日後にはどういう意味だかわかんなくなってそうな記述)。
 
 鳩子氏の哀しさは主人公の中二病を理解できないってことで、そういう意味ではもちろんともよ氏(元中二病ゆえ主人公と話が合う)が彼女のコンプレックスを刺激し/主人公との時間を奪う敵として機能する訳なんだけど、その「理解できない」ってのの度合いが重要で、無論として紗弓さんや千冬ちゃんは自らは中二病ではないまでも主人公の中二病が格好悪い/世間的に馬鹿にされるものだということは理解できているのだけれど、一方で、鳩子氏の理解できなさってのは紗弓さんや千冬ちゃんのそれ(おおよそ理解とは呼べない程度の、ぱんぴーの目線に近いそれ)に比してもなお根深い。そもそも中二病という概念をおそらく理解できていない、ということだ。
 だからこそ、鳩子氏が主人公を糾弾する時、そこでは「中二病なんて恥ずかしい」ではなく、「中二病の何が格好いいのかわかんない」という論理を行使している。鳩子氏にとって、中二病とは主人公が薦めてきて/自分が理解できなかった趣味ないし感性一般をラベリングする言葉であって、そこには外部の視線を導入する必要など微塵もない。重要なのは少年の好きなものを理解しようと努めてきた少女が彼との遠さに爆発したという一点であり、ここで考えるべきは恋と相互主義、本当の自分概念、そういったものだろう。
 ぶっちゃけメタなラノベ批判とか言い出すのは(アニメの描写だけ信じる上では)トンカチ持った人間にはぜんぶ釘に見える案件でしかないよなーとは。有り体に言ってアホだと思います。上述した通り、鳩子氏の吐露はその私的さこそが尊く/意味をもつものであって、それをメタ/つまり上部構造への接続と安易に見做すのは彼女の馬鹿らしいまでの真摯さを蔑ろにするよくない観方だと思う。割とマジで呆れてるぞ僕は。
 
 後半、眼帯氏による説得のロジックに何か問題がある気がする、のだけどまだあんまり整理してないです。適当に列挙しておくと、
 ・鳩子氏は主人公の中二病トークを楽しみたいが、楽しめない(ex:"「神話に出てくる武器の説明されても楽しくないよ」"」
 ・鳩子氏は主人公が他の人、特にともよ氏とは楽しく中二病トークしてるのがつらい(鳩子氏目線での寝取られ)
 ・鳩子氏は主人公の中二病トーク、ひいては彼自身を理解したい(中二病という外殻を剥がす手段がない)
 といった感じで鬱屈したものはたくさんある筈なんだけど、そこら辺をぜんぶ「彼の全てを理解しなくてもいい、中二病は理解されないことも醍醐味なんだ」って論理で切れてしまうのはまずくないだろうか。
 鳩子氏の側の気の持ちようでそういう風に関係性をずらしたところで、他の人には理解できている主人公の言動が彼女には理解できないという事実は変わらない。というのと、鳩子氏のわからなさってぶっちゃけおばあちゃんのそれであって、中二病の快楽に結びついてるようには到底見えないんですよね、というのとがあって。そこら辺よくわからんうちに一旦解決みたいなムードに見えたのは割と脳がウーンとなる感じではあったか。
 とはいえシリアスで引っ張るようだしまだ鳩子氏回のターンは終わってないっぽいからなあ。期待はまだしておきたい。
 
 あと何だろう、鳩子氏が憧れたのは主人公の中二病的な振る舞いでもあったはずだ、という論理は採用しないのかな。もしかすると8話でそこを落とし所にするのかも知らんが。
 ありのままの彼を好きになる、とか現状から今更やられるのは結構萎えるのであまり予想してない方向での解決が見たい、かな。そういう尊さを実装するなら物語開始と同時に初期状態で実現しておくべきだと思うし。なんせ幼馴染なんだし。
 
 適当にエモいポイントの指摘。
 鳩子氏の流暢な中二病disは主人公に勧められたもの/その売り文句として主人公が発した台詞を次々と批判する形をとったわけだけれど、それはつまり鳩子氏が主人公の勧めてくれた中二病的作品/概念をあまさず理解しようと必死で憶えたことを示唆している。そうでなければああも流れるようには吐き出せない。
 また上で書いた通り、彼女の指摘には中二病の恥ずかしさという一般的な観念がかなりの部分抜け落ちているように見える。二者間の閉じたプロトコルとしての中二病、が成立していた可能性を示唆するものであって、つまり主人公と鳩子氏はうまくいかなかった中二恋の主人公とヒロインだといえる。ごめん与太。

異能バトルは日常系のなかで 6話まで

 文体を崩しつつ順番に感想を書きます。
 僕にソリッドな文体とか無理なんじゃねえのか疑惑が色濃くなってきた。
 
 4話。
 コスプレのところの話。通俗的邪気眼概念が流通する空間がどういった利点を持つかというと、ひとつにはギャップ萌えを任意の瞬間に(仕込みなしで)利用できることが挙げられます。邪気眼のような仮構されたペルソナを前提とするコミュニケーションが唐突な邪気眼の解除によってつんのめる瞬間、つまり素の自分が覗いてしまう瞬間、それはエモい/萌えるということです。利用する上ではたんにヒロインが主人公の邪気眼によるブロックを期待して投げたスレスレの球が素の主人公によってホムーランされればいいだけなので、これは非常に使い勝手のよい構図です。代わりに主人公側にどんどん施すべき処理が堆積していくのが難点かもしれない。ただ、主人公の主人公性を問題にする方向で畳むならそれはむしろ布石として機能するし、個人的にはそういう方向性を望みたい。
 描写として特筆すべきは7:36あたりでの鳩子氏の表情かな。自意識あったんだなこの人という感じ。明らかに虚を突かれた感じで、しかしそれでいて直後に「あれー!? 本当だあー!」とか言ってみせるのだから堪らない。ここで(冗談という体ででも)嫉妬してみせたり、或いは茫然自失としたまま立ち直れなかったり、というキャラなのであれば救われたのだけれど、悲しいかな、彼女の精神は人並みに揺れるし人並みにスタビライズされてしまう程度には普通なのでした、といった辺りで容易にカタストロフが予見される訳ですね。鳩子氏回での発狂早見沙織が期待されます。
 あとアレ、"「喧嘩するほど仲がいい、だよ」"ってのを一切の悪性を行使できなさそうな鳩子氏に言わせるのはマジで邪悪な深読みが無限に出来そうで大変よろしい。主人公の邪気眼は素の自分に迫られた時のための防衛ラインとしても機能するので、邪気眼に気付けない―――邪気眼の向こうにアクセスできない鳩子氏は常に彼のディープに触れることができなくて、みたいな妄想は無限に成立するしそれなりに妥当そうな気がします。
 物語。起こったこととしてはまあ俺妹のあやせ回ですかね……(そういえば鳩子氏は地味子氏と印象が被る)。"「千冬が高校生と遊ぶのは変なんだって」"という台詞に、ああ、邪気眼の実際的な問題つまりアウトソーシングされた害意を身内が行使してくるタイプの地獄について取り上げるのか、と期待していたのだけれど、結局は害意の向かう方向性を有耶無耶にする方向にずらしてるので、そういう意味では善くなかった点もそのまんま俺妹のあやせ回だったかなーと。ハンター試験会場へと向かう最中のクイズじゃないけど、本当にそれが問われたらどうするの、っていうアレですね。とはいえ幼い子供なのだし、先延ばしは処理としてそんなにグロい訳ではない、ということには留意しないといけない。邪気眼は本質的には狭量さが問題となる(そういう意味ではダブル佐藤の問答はやはり精確だったのだ―――全編あの精確さでやってくれればなあ)ので、充分に大人になるまで優しい嘘で騙すというのもまあ教育としては悪くない。フィクション女児は賢いんだしそんな気遣い要らなくね? とも思うけれど。
 特筆すべきワード。"「だって、安藤はずっと中二だから」"。それは彼と彼女がいつか出会えるという希望であると共に、避け得ない別れをも確約する事実だ。ここに主人公の正しさは保証され、ヒロインと彼の非対称性、位階の差は明白に示されたという訳だ。……みたいな話になると僕が割と喜ぶ、かな。
 
 5話。
 冒頭からギターを持ち込む主人公。赤いギターというのは大変にベタな「かっこいい楽器」で、まあ手垢に塗れているんだけど、この手垢に塗れているって事実が重要なのかなーという気もしてきた。というのは、彼の邪気眼が視聴者―――僕やあなたにとって格好いいものには見えない、むしろ無惨なものにしか思えない、という事実こそが、彼のひたむきな執着を担保するからで。交換価値が薄いほど、それを欲望する人間の欲望の強さは大きめに見積もられる、ってことですね(紙幣を集める人間よりも木の葉を集める人間の方が「蒐集」に関しては上位に認識される、とゆーアレ)。仮にそうだとして、どういうロジックに繋げるのかは謎。主人公の過去話? でもなあ……。
 ともよ氏の振る舞いは大変に無惨だ。主人公がどこまでも自分の信じる邪気眼を裏切らないのと対照的に、ともよ氏はぱんぴーのロジックを完全に内面化してしまっている。自分の嗜好を把握した上でなお、それは人様の前で明かせない汚点であると認識している。こういった思考がまず悲しいものだが、本当に悲しいのは、彼女は一方で、主人公の邪気眼っぷりを扱き下ろすことで精神の安定を図れてしまう、ということだ。
 主人公はキリストですね、とか言うとまあそりゃそうだろという感じの構図ではある(供犠、ということ)。
 ここらへんについては、主人公は正しさの顕現なのかなあ、といった印象。正しさを保ったまま彼を引きずり下ろす=ラブコメの世界に召喚するために、彼の正しさを低減せずに傍目には正しくなく見えるような振る舞いとして「手垢のついた邪気眼」ってのが要請されたのかなー、と後からは見える。ただ作中の条件から類推するのが既に悪手っぽいというのと、アニメで独白が削除されることにより完璧さを増すラノベ主人公みたいな問題がたぶんあるので、そこらへんは本当は原作を読まねばならない。なお金が無いので原作は当分読めません。誰か貸してくれ。
 ともよ氏の時間停止ってちょっと変だよなー、というのは、本質の反映でもなければ、願望の反映でもなく、自分で選択したものでもないからですね。すごくベタに考えれば鳩子氏が時間停止であるはず(幼馴染キャラなので)。こういう部分についてはわざと外してるのかなーという感触のないではなく。
 
 6話。
 冒頭の作中作がすげー直截なメタファーくさくて逆にミスリードなんちゃうんという護身発動。邪気眼の楽園と足抜けの問題として読めますね。邪気眼は常にぱんぴーとの戦争として語られる(AURAの結論の邪悪さ、というのはまずもってそこにあるわけです)。作中作での主人公の扱いがいい、というのがまあ示唆的ではある。
 物語。問題なんてーなにもないよー!(要約)、という感じ。ヒロインはもう問題とか内面化して解決してて、でもそれは嘗ての主人公の言葉あってのもので、彼は自分の優しさが実を結んだ結果だけを観測する。
 立派な人間になりなさい、というフレーズからウッヒョイ邪気眼といえば人間の価値の恣意性の問題!! とテンションを上げていたのだけれど、特にそういう話ではなかった。うむ。
 "「私は能率や結果を重視するあまり、仲間を見ていませんでした。誰かさんとは大違いです」"。モラトリアムとしての異能に彩られた日常。ともよ氏ワナビムーヴへの励ましが今この瞬間の楽しさを問うものでありラノベ作家になれるかどうかという結果を問うものでなかったこと、千冬への手助けが問題を先送りにするだけのものであったこと、がここで総括される。わざとやってるのであれば、依然として期待はできるのでは。

異能バトルは日常系のなかで 3話まで

 長編ラブコメの要点はその始まりと維持と終わり、それぞれのフェーズに於いて適切な処理を選択し、各フェーズの接続と断絶とを恣意的に操作することにある。始める仕掛けと終わらせる仕掛けのほかに、続けるための仕掛けが必要とされる。
 ただラブコメを続けたいだけならば、事はそう難しくはない。サザエさん時空を採用し、致命的な世界の変動―――たとえば、誰かの告白など―――を許さない微温的な空間を維持し続ければ、それは終わらない。だが無論、エモさ一点突破至上主義者が意思決定をする限りに於いて、そのような選択肢は肯定され得ない。なんとなれば、ラブコメのエモさに於いて極めて重要なのは告白であり、恋愛の成就または失恋であり、つまるところ致命的な世界の変動そのものであるからだ。
 どれほど安定に続く世界であっても、エモさを取り出せなければ意味がない。僕やあなたのような、エモさ一点突破至上主義者にとっては。宇宙空間で空転し続けるモーターは永久機関ではないのだから、座して眺めるだけではなく、そこから最大のエネルギーを取り出すための条件を考えなければならない。それが、そこにある永遠に止めを刺す行いだとしても。
 
 本作に於ける「中二病」(実質的には邪気眼だが、以後は作中の用語法に倣う)は、その意味では理に適った機能を有している。終わらせないための機能と、そしてエモさを最大化するための機能と。
 前者について。主人公の「中二病」は、常に悪ふざけとして扱われる。三話での他の中二病患者との対峙シーンで語られた通り、無論として本作に於ける「中二病」はマジなものとして扱われる―――彼らは本質的にはポーザーではない―――のだが、一方で、中二病ではない彼女らにも「中二病」という概念への俯瞰的な理解があることにも注目せねばならない。第三の中二病患者との対話で明らかにされたように、彼らの「中二病」はこんな筈ではない想像上の自己への憧憬と/こんな程度でしかありえない現実の自己への承認欲求との背中合わせの渇望でもって駆動されている訳だが、そのような来歴にも関わらず、彼らの振る舞いは俗人が想像する通りの「中二病」像を逸脱しない。どこまでも既存のコードに乗ったものとして扱われるそれは、オリジナルではありえない。必然的にそれは仮構された自己としての機能を有し、彼ら彼女らはそのようなペルソナとの恋愛を志向しない。終わらないラブコメの要件、その一つ目だ。
 後者について。上記した通り、主人公の振る舞いは本質的に仮構である。ここに、主人公が実は理知的で優しい人物であるという事実が最大限に生きてくる。ヒロインと接する時の彼は常に「中二病」の少年として、である―――少なくとも、三話までの時点では、少数の例外を除いてそうだ。だからこそ彼が、「中二病」としてではない素の彼が表出する時、そこにはエモさが生じる。なんとなれば、エモさの基本は単純化であるからだ。複雑さが縮減し、経時的な変化が高速化し、感情が虚飾を失った時、それはエモい。また一方で、この種のエモさの生成は主人公とヒロインとの一対一のシリアスな対話(cf.会長回での幼馴染との会話)は勿論、ヒロインたちが不在の彼のことを話題に出す際にも成立する、ということに注意せねばならない。
 
 上記したような巧みさと、仮構と本質、本音と建前、そういった問題への意識を窺わせる話運びから、技術的な期待を寄せる余地は大いにあるように思う。とはいえ、実はここまで記述してきた巧さはそっくりそのまま『生徒会の一存』シリーズにも見いだせるものであり、無論としてそこに見出すべきは生存ひいては葵せきなのヤバさ/先進性であって本作の瑕疵ではないとはいえ、この上にどのような美しい論理が構築されうるのか、現状では手放しで呑気に期待できるかと問われるとだいぶ怪しいというのが本当のところだ。
 期待できる要素としては、「中二病」について、そう願った理想の自分としてのみではなく、その陰に潜む、そうなれはしない本当の自分への承認をも同時に求める衝動であると定位している点が挙げられる。その鋭さがどのように実を結ぶかは、期待してもいいのではないかと思う。
 繰り返しになるが、現状の世界観を成立させるための手管はそのまま『生徒会の一存』にその先例を見ることができる。つまり、「中二病」という概念は生存におけるハーレム願望に対応しているということであり、生存の杉崎鍵がそうであったように、本作の主人公もまた、「中二病」という概念を最大限に利用することが期待される。そこは現状では浮いている部分であり、だからこそ、作者の思い通りに操作できる武器となるのだろうから。
 
 
 蛇足。
 早見沙織がすごい喋ってるのですごくいい、んだけどやっぱり六畳間の早見沙織の方が好きだったにゃあ……。いや、六畳間の早見沙織は本当に奇跡だったので、あれをアベレージで求めるのって大変よろしくない気もするんだけど。
 福原香織の声がいつまで経っても同定できない。つかさってマジですか。あと親友キャラ(?)の声が古城くんだと気付かない糞耳っぷりに軽くつらさを覚えたりもしたという。