交差するイマにまっしぐら

 たぶんどこかで書いたことをもう一度まとめる。思い込みの再生産過程を思索と呼びましょう連盟。
 
 人間同士の心的距離の話、という括りを導入した時、CROSS†CHANNEL最果てのイマの二作は対になる(触れ得なかった物語と、同化してしまった物語)。
 C†Cにおいては、他者と接続することの不可能性が描かれていた。曜子ちゃんの送還やエピローグの冬子パートにおける放送で、それは直接に主張されている。何もかもを共有することは叶わず、死ぬまで一人でいるしかないとしても、それでも、と続く過酷と希望。人を象る檻―――社会であり、自我である―――によって規定された生。
 一方で最果てのイマにおいては、他者と接続してしまえる存在の物語が描かれた。他者との接続不可能性は、彼らにとってはむしろ憧憬の対象となる。彼らの世界観に於いては、断絶は聖域が存置される可能性を意味する。暴力的なまでの知覚はヒトの尊厳を奪い、理解が及ばなかったがゆえに存在し得た奥行きを残らず除去してしまう。彼らがごとき者の存在する世界で、人とは、倫理とは、罪とは? と問いを投げ掛ける物語。前提の操作と可能性の描出という意味で、正しくSFである、とも。
 
 この軸に関しては、最果てのイマが窮極であるように思う(良し悪しでなく、発想としてこの先がない―――僕の貧しい脳で考える分には)。Rewriteの問題意識に関しては、最果てのイマの問題意識の変奏として僕は読んだ。
 霊長流離オクルトゥムに於いては何が描かれるのか。どこを向くのか、どこまで征くのか。田中ロミオの足跡を辿りながら、待っている。