hollow ataraxia

 hollowの昼パートのどうしようもない怠さはキャラの記号的な戯画化/先鋭化によるギャグのパターンの描出というstay night直後から1年間ずっと二次創作で見せ続けられてきた類の処理をよりにもよって公式FDで観測する羽目になるという悪い冗談のような構図が齎すものであって、僕たちははらぺこ王やあかいあくまや黒桜といった単語を想起させられる展開を見る度につらい想いをさせられた訳なのだけれど、あの退屈さ、凡庸さは時間的/空間的に強く制限された世界のリプレイの中では極めて狭いバリエーションの出来事しか起こらないという端的な事実を主張すると共に、そのような出来事―――汎用で、退屈で、色褪せた―――こそが/であっても彼にとっては価値あるものであった、という本編で何度も説明された事柄の裏付けとしても機能する。ので、正しい。
 もっと正しくするためには新たに開陳された設定やsn本編では実現されなかった対話を中盤までに固め、終盤はひたすらある種のSSのごとくステレオタイプを垂れ流す構造にするといいのかなーと思ったけれど、本編がどうであったか記憶が朧気だし、そもそもそうであったからああまでつらかったのでは、という気もする。
 
*9/22追記
 岩戸の前でダンサブルに舞ってたら声を掛けられて大層驚いている、といった風情(そのうち整理して何か書くことでしょう)