ご注文はうさぎですか? 総評

 まだ観返しての検討とか済ませていないけれど、とりあえず通して追ってきた上での感想をひとまず。
 
 僕がある場を優しい世界であると思う時、念頭に置いているのは以下のようなことだ―――自己演出が制限されないこと、不随意な空気の読み合いを強制されないこと。もっと単純化して、ありのままの自分をどれだけ出せるかと言ってもいい。
 たとえばきんいろモザイクに於いては、互いによく知る幼馴染同士ですら、両想いにも見えるペアの間ですら、頻繁に思考が伝わらない場面があった。軽い冗談にもマジな突っ込みが入りうるし、極めて胡乱な勘違いに更なる勘違いが上乗せされるような事態が頻発する世界観。
 そのズレは無論、第一義的にはギャグとして利用されるために存在していたのだろうけれど(意図の誤解をベースとした笑いの創出)、また同時に、それは世界の心地よさを保つためにも機能していたように思う。全ての発言が深刻に誤解されたり裏読みされたりしうるということは、全ての深刻な発言がその深刻さの特権的な重さを失うことと同義であり、あらゆる瞬間に通じない可能性の強く存在する会話には、通じさせるためだけに付与される類の冗長性が必要とされない。丸出しの意図を投げ合う、不純物のない会話。誤解を恐れることなく発され、そして誤解されていく言葉たち。そして、噛み合わないにも関わらず、楽しそうな彼女たち。
 あれはディストピアだと断ずる向きもあろうが、僕は確かに、あれをひとつの理想として見ていた。
 長くなるので詳細は省くが、同じような理由でもって、僕は『WORKING!!』『動物のお医者さん』の世界にも心地よさを覚える(というか、後者の文庫版あとがきの記述がこのような観点を持つに至った契機だ)。
 
 他方で、ゆゆ式に於いては逆に、極めて高度に意図が通じるがゆえの楽園が描かれていたように思う。常に二手三手先を見据えた会話。どう会話を転がして/或いはどこで打ち切ってしまうのが最も楽しいか、常に各人の意図が錯綜し、その場その場で適切な流れを採択していく世界。無論、そのような行いは構造だけ取り出してみれば現実世界でもよく見るそれではあるが、各キャラクタの圧倒的な思考の早さ/発想の面白さに支えられた時、尋常の会話は非日常的な尊さを宿し始める。行われているのは間違いなく空気の読み合いであり、局面によっては発言の強制も発生するが、それら全てが誰をも傷つけることなく、面白さに繋がっていく。圧倒的な知性でもって維持される優しい空間。
 そして有り余る頭のよさは、自分を殺すことなく、ネタの流れに乗ることをすら可能とする。本当にすごいと思うのはここで、見方によっては、彼女らは発言者の癖までをも考慮に入れて流れを操作している、と見ることもできる。
 
 この他にも優しい世界であると感じた作品はあるものの、それらの傾向については上で語った二作のヴァリエーションとしておおよそ語ることが出来る(というか、出来るように「優しい世界」という概念を僕は整え、運用してきた)。超人たちによる極めて高度なコミュニケーションを構築するか、或いはディスコミュニケーションを徹底するか。畢竟、この二択のどちらかを選ぶこと、つまり伝わったり伝わらなかったりする中途半端な状況に身をおくこと―――一般的なコミュニケーションの困難さであり、つらさだ―――を極端な仕掛けによって迂回してしまうことが、安定的に優しい世界を供給するための処理であると、僕は考えていた。
 
 そこで、ごちうさはどうなのか、というと。優しく心地よい世界であるにも関わらず、各キャラの意図が通じたり通じなかったりしている、ということが、僕にとっては新鮮だった。
 通じるという面について最も印象深く感じたのが、誰かの独り言が他の人に聞かれてしまっているシーンの多さだ。いや実際ちゃんと数えなおしてないので印象的だからと勝手に水増しした印象を持っているのかも知れないのだが、とにかく、それを拾うのか、という驚きがあったことを覚えている。漏れた本音が拾われてしまうことは、ゆるく優しい世界では基本的に避けるべきことの筈ではなかったか。そして一方で、ふつうの誤解や勘違いが発生する作品でもあった。つまり、ここでは盤石なコミュニケーションも、盤石なディスコミュニケーションも成立してはいない。にも関わらず、感じる心地よさには確かなものがある。
 それはきっと、何の変哲もない、丁寧なキャラの動かし方によって齎された実感なのではないかと、観続けているうちに思い至った。コミュニケーションの成否について、両側に極端な枠組みでコミュニケーションの失敗の痛みを低減するのではなく、発生したコミュニケーションそれぞれについて、都度最も望ましい結果になるよう、状況を操作していくということ。考えてみればこれは特異な手法でも何でもなくて、おそらく僕が前段で挙げたような処理の方が先鋭化した果ての特殊な世界構築の手管なのであろうが。
 リゼの趣味は周りに少しずつ露見するし、チノの照れ隠しはココアに看破されるし、シャロの嘘は本編で皆にバレる。その全てを伝わらなくすることでも、安心して観られる優しい世界を構築することは可能だった筈だ。しかしそうはしなかった、そうはなっていない、その事実に、僕は今作の最大の魅力を見出したいと思う。
 
 キャラの話とか。ゆるっと。
 最初はリゼ氏〜〜〜萌え萌えでござるぞ〜〜〜って感じだったのだが、途中で完全にココア氏にやられる形となった。ビビオペの時も思ってたけどやはり佐倉綾音の人たらし感は異常。
 シャロ氏は割と苦手っぽいキャラで、うーんこの、って思ってたのだけれど、なんか割とすぐ馴染んでくれた感じ。やっぱりすぐココア氏と仲良くなってたのがすごい印象よかったっぽい(未確認の金髪の人の苦手さって第一にはそういうところであって)。
 千夜氏は一番いいタイミングで的確にブッ込んでくるキャラという印象で。あまり中二ネーミングネタに感じるところはなかったのだが。
 チノちゃんは割とこう、何ですかね、自分も騙せない嘘で強がる時が一番かわいいですね。それをココア氏に悟られて真っ赤になってる時など最高。

 よかった台詞とか、そういう各論についてはパワーが有り余っている時に。たぶん。