リトルバスターズ! 19話

 ラストのシーン。クドの性格を考えれば、皆を巻き込んでしまったことに気後れしてしまったり、気持ちだけ受け取りますから始まる前に戻ってください、などと言ったりしてもいいのだが、しない。彼女は飽くまでも皆の心遣いに全霊で喜ぶだけで、そこには普段見せていた自己卑下も混ざらない。皆の示した好意をそのまま好意として全て受け取り、自虐で渡された優しさの価値を減じることもよしとしない、その行いは善性の証だ。どこまでもまっすぐに純粋に他人の気持ちを慮ることができる少女、しかもそれは未成熟がゆえの無垢さではなくて、たとえば彼女は自分に半ば侮辱するような言葉を掛けた者にさえ、彼らの反応は正常だと理解と寛容を示すような知性もある。その時にしっかりと痛みを受けてもいるというのだから筋金入りだ。鈍感さゆえの超越ではなく、むしろ痛みと弱さを知るがゆえの、極まった優しさに支えられた強さ。
 ……そういうところが眩しすぎて直視に堪えないので、僕はクドがすごく苦手だ。たぶん崇拝と紙一重の忌避ではあるけど。崇拝側に寄ると観鈴ちんとかが居る。たぶん。
 リトルバスターズには、というか鍵ゲーには不適切な気の遣い方というのが多い気がして、これはAngel Beats! でも思ったことなんだけど、善意の行使方法を間違えたようなシーンが割と目に付く。そのこと自体のエビデンスと是非については現在酒で脳が揺れているので検証/考察できないのだけれど、とりあえず、その種の不器用さ―――場合によっては無神経さ、がある種の尊さを体現する瞬間がある、ということは主張しておきたい。相手の身になって考えない(・・)こと、そして客観的に悪手な気遣いに対してその善意を受け取って自分勝手に感謝すること。どうしようもなく断絶しているからこその優しさが、そこに生まれる。