ゆゆ式 2話

 1話でも思ったことだけれど、アニメを作ってる人とは何処までもゆゆ式観(すげえ言葉だ)が食い違うなー、と感じる。
 いやアニメ作ってる人って誰だよという話だけど。脚本? どっちかというと演出の領分っぽいかな。全然出来の悪いアニメじゃないので、変な風に読んでる読者の繰り言と化している感。
 
 冒頭のなんつってっつっちゃったネタ、「…アレだね 火山だけに」から「ようがんばった ってね」の間に原作には無かった長めの空白を挿入したこと、及び二人が笑うのをゆずこさんのようがん発言前に止めてしまうこと(火山だけに、の時点で二人の興味が完全にゆずこさんの次の発言に移ってしまっていること)、あと最後の飲み物を淹れてから突然ハイテンションに復帰する流れが冗長化されたことが、笑いどころを致命的に損ねている印象で。このネタにおいて重要なのはおそらく、爆笑レベルの話題(火山)の直後にゆずこさんがノリで駄洒落をブチ込んだら若干空気が凍ってしまい咄嗟に照れ隠しを入れたところを縁さんが拾い一頻り盛り上がった後に何やかんやで一息ついたと見せかけて示し合わせたように再度盛り上がったところに犬がオチとして吠える―――という一連の流れが極めてハイテンポで演じられ、全く寸断されていないことのはず。 
 ところでゆゆ式が凄いのは、会話という営為をどこまでも緻密に組み立てた、という部分にあって。会話ってのはかなりの部分が制度として簡略化できて(おそらくリアル創作問わず)、「面白い会話」って言った時には「会話の中で出てきたネタが面白い」ということのみを意味する場合もしばしばあるのだけれど、ゆゆ式においては会話の内容のみが面白いのではなく、会話の行われ方がそもそも面白い、ということ。
 原作では縁さんが「なんつってっつっちゃった」を拾ってからゆずこさんが「なんつってっつっちゃった?」と返し、縁さんが「なんつってっつっちゃった!」と再び受け、ドヤ顔で相互に了解を得て、でも唯ちゃんは頭に汗マークが浮かんでいて……という流れがあった。そうやって何気ない遣り取りの中で打ち合わせ無しに面白い流れを発見して以心伝心でそっちの方向へと誘導したり、また時には面白くない流れと判断して自分で打ち切ったり、そもそもネタを言わずに秘めておいたりしたりといった風に、会話を面白くするために各人の取る行動そのものが会話の意味内容とは独立して面白かったのだけれど、アニメだとそういうところが相当減退しているよねー、といった話で。ネタへの反応が全体的に遅いところや、ネタを始める前に流れを操作しようとする素振りが削除されがちな辺りが、彼女たちの会話の巧みさを感じさせない原因になってしまっているのでは、と思う。
 あと冒頭に書いたけど、やはりテンポを落とすことは単純に知的さの減退に繋がるよな、って辺りか。探偵の頭のよさはしばしば論理の演繹の速度で表現される、とかそういう。特にゆずこさんの知的さはネタの転化の速さにおいて最も強く輝いてる感じがする(なにせググることが主要な活動の部である―――知識は頭の良さの指標としては遣われない)。
 
 ……しかしネタを文章で説明するの、つまらない人間の行いなのでだいぶ心が死ぬ。つまらない人間なので説明しちゃうけど。