やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 第6話

 あなたがたはまるで、パブロフの犬のようだ!
 条件反射で、涎を垂らしている!

 視界に映るものが全て酸っぱい葡萄であるならば、無視して歩くだけで収支としては儲けものだ。偶発的な当たりの可能性を全て切り捨てることで、確定されたハズレの回避が約束される。そのように割り切る前、たまたま最初に食べた数粒が無残にも酸っぱければ、甘いかもしれないという未練を残す必要も失せる。道中、甘い甘いと喜んで食べる人々を見て、味覚障害と蔑むのもいいだろう。世界を読み替えることで、負け犬は存在しなくなる。たとえ奴隷道徳に過ぎないとしても、それこそ他者と触れ合わなければ、みじめさを感じることもない。
 つまるところ、世界の―――人間世界のファジーさ/偶発性が齎す過酷に対して、予め用意しておいた諦念を以って対処することが(撤退戦に限っては)成立する、ということ。問題はどちらに振るか―――つまり世界の善さを信じるか、悪さを信じるか―――だが、突き抜けた強さ或いは信念が無い限りは、後者を選ばざるを得ない。比企谷八幡の振る舞いとはつまりそれだろう。いやアニメでしか知らないので正直不安なんだけど。
 用意された諦念は、希望を抱いてしまうごとにより強固さを増す。だから、彼の弱みは―――振る舞いの陥穽は、他者に偶発的な/意図の読み込めない優しさを向けられることに他ならない。全ての意図の裏に悪意を読み込み、全ての偶然を悪い方に曲解することでしか、彼の世界観は保たれない。だからこそ、ひたすらに彼を肯定し、彼に近付いて手を取る戸塚彩加の行いは、容易に鎧めいた虚飾を剥ぎ取る。洒落にならない世界の歪みを齎す。
 甘い葡萄を食べさせられたら、今まで見逃してきた葡萄全てが甘かった可能性を認めなければならない。それはきっと、救いではあるけれど、同時に何よりも残酷な仕打ちでもある。
 成長でも馴致でもない一手をこそ見たい、と個人的には思うところ。