やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(全話)

 どこまでも高まり続ける八幡の強度に着いて行けるのは葉山と平塚先生だけであり、八幡の側の精神的な障壁を乗り越えて正しくヒロインとして振る舞えるものは戸塚だけである、ということに(最終的には)なった。
 ……たぶん、最初はそうではなかった、というのが面白いところかと思う。最序盤の八幡の振る舞いは作中人物はもちろん視聴者から観ても正しさを欠いたそれでしかなく、そこでは転倒の末に正道と化した、ぼっちであることを強さの/正しさの/純粋さの証として読み込むための理路が機能していなかった。原作でも同様の処理だったのであれば、或いはこのことを新しさとして評価する声もあったのかも知れない。
 しかし、八幡は正しさを獲得していった。誰かの悩みを解決するたび、彼の虚言は、捻くれたポーズは言葉通りの強さを纏い始めた。最終話に至り、彼の正しさと対等に戦えるのは平塚先生と葉山くらいのもので、そこではヒロインなどモブと変わらなかった。孤独は正しさと強さの証として解され、彼を阻害する世界はひたすらにディストピアとしての色を濃くしていく。
 そう、間違っているのは八幡ではなく世界であり、だから世界に順応せよという、ある種の者にとってハッピーエンドへの鍵となる選択肢の提示は、そのまま彼の気高さを殺す呪いと化す。選んでも、選ばなくても、結局は破滅が約束されている。だから―――そう、だからこそ、葉山×八幡は正義なのだ。彼を救えるのは、……デチューンして薄く世界に溶かすのではなく、存在そのものを救える可能性を持つのは、葉山であり、雪ノ下ではない。
 
 とドラッギーなブツを一息に吐き出しつつ。
 割と本気でヒロインいなくても話回るんじゃないのかナーという気はしていて。そりゃあ細部は変わるだろうけれど、でも、驚くほどに、問題意識にヒロインが掠らない。そんな印象。
 そういうふうに問題を立ててるんだから当然なんだけども。