リトルバスターズ! Refrain 6話

 4、5話試聴終了後に考えてた予測は大体外れてたので無かったことにしました(L5発症顔で)。
 3話直後に書いたこともだいたい的外れという。既定路線や! ガハハ!
 
 6話感想。大筋は原作準拠でありながら、シーンの見せ方に相当な部分、アニメスタッフの工夫を突っ込んであるなー、という印象。
 
 ……大方のノベルゲームの画面において、立ち絵はある程度の変化を排除してキャラクターを見せる装置として機能する(背景もそうだろうが、ここでは措く)。どこを描写するしないの閾値とするかは作品によってまちまちで、服に返り血が付いていたりだとか、物を持っていたりだとか、目線が違っていたりだとか、演出意図に応じて様々に立ち絵のバリエーションが存在しつつも、明確な差異として設定された以外の要素は容赦なく切り捨てられるのが常だ。ポージングが違ったとしても手の表情までは変わらないとか、泥を跳ねられたシーンでも服が綺麗なままだとかいったように、バリエーション毎の差異よりも微細な変化は、立ち絵の要素として描かれることなく切り落とされる。例外は当然あるが(リソースの削減を志向した手法なのだから、敢えてそこにリソースを注ぎ込もうという趣味は当然生まれる)、リトルバスターズの原作は少なくとも上述の例に漏れない。
 以上のような理由に加え、視点人物である直枝理樹が不安や怒りで注意力が落ちてもいるのが鈴ルートであって、このルートでは恭介や真人、謙吾の微細な変化は描かれない。彼らの細かな所作を描写しないのが立ち絵であり、無限に細かい描写の権利を得ているテキストでさえも、一人称である限りは視点人物の気付かなかった要素を描写し得ないからだ。
 そこを敢えて細かく拾い直して描いているのがアニメ版なのだな、という感触がある。
 特に印象的だったのが、泣き顔のメールを受信し、自室を飛び出した理樹を恭介が引き止めるシーン。疲れを隠そうともしない不審な挙動に、低調な声、一定せず揺れる瞳。そして、理樹の弾劾を受けて拳を震わせる描写。原作ではRefrain突入まで完璧な敵として描かれていた恭介が、アニメ版においては既にここで弱さの片鱗を見せていた。
 また逆に、鈴を送別するシーンでは恭介の顔が描かれていないことで、完璧さに罅が入っている。強さを出したいなら微笑んだ表情で描けばいいし、確定させたくないなら原作通り理樹視点で背中側からのみ描けばよかったところを、敢えて正面から/表情だけ隠して描くカットには、強い意図を感じてしまう。
 
 その他、明示的な描写の増量は枚挙に暇がない(謙吾の左腕なんかは強調し過ぎていて驚いた―――アニメ初見組の為だろうか)。
 謙吾の茶番だぁーっ→殴打→絶叫の流れも、原作の凛々しい怒りに比べると、より剥き出しで子供っぽい激情に変更されていたように思う。これは大部分、声優の演技に拠るものだろうけれど。
 
 鈴の話。おそらく無印からRefrain6話までで最も重要な変化を遂げた彼女。併設校まわりの話は概ね同じ筋ながら、やっぱり受ける印象としては細かく違う。
 5話までの視聴から、ああまで強くなった鈴がHANABI展開(HANABI流れましたね(やはり沙耶ルートでは走るをですね))に至る所が想像できないと思っていたのだが、アニメの演出だとむしろ社会性が増したからこそつらくなってしまったように見えて、非常に巧い。原作では鈴の力不足で空回って失敗したように解釈されるところが、アニメ版の描写だと併設校の人間があまりにもダウナー過ぎて駄目だった、という風にも読める。リトルバスターズの皆としか社交的に振る舞えなかった、ではなくて、リトルバスターズの皆と共に過ごす時間があったからこそ、応答の得られない孤独に打ちのめされている、といったように。
 「だれもはなしかけてこない(∵)」「いつもひとりだ(∵)」という二つのメールはアニメ化に際して追加されたもののようだ。この追加も相俟って、原作とは違い、友好的に接する方法がわからないのではなく、友好的に接しても反応がなかったのでは、という想像がいよいよ強まる。
 また、原作では一時的に帰宅してからリトルバスターズの皆に会いたくなかった理由が皆をもう信用していない(メールの着信拒否の件で)からだったのが、アニメ版だと凹んでいる自分を小毬ちゃんに見せたくないから、というものに差し替えられている。柵を越えて脱走する時、原作では猫がついてこなくなるまで乗り気だった筈の鈴は、小毬ちゃんに伝言していくべきだと言い出す。原作通り、途中で小毬ちゃんの携帯に繋がらなくなったにも関わらず、だ。
 そう、棗鈴はまだ、リトルバスターズの皆とは切り離されていない。
 むしろ、描写の水準に於いては、直枝理樹の方がより危うく描かれている。このことが、どう機能していくのか。……HANABI原型展開、はさすがにないか。
 
 恭介の用意した試練が不適切なものだったのでは、という示唆を強める演出。そして、鈴が理樹に依存しきってはいない、皆を拒絶してもいないという事実。
 僕が見たかったリトバス―――そう、「ふたりが手をつないだ」リトバス。鈴が理樹を助けるような、「今度は僕があの夏へ連れ出すから」を鈴の側が実行するような、そんなリトバスの可能性も、まだ残っている。
 7話が楽しみすぎてつらい。

リトルバスターズ! Refrain 3話

 停滞する世界の只中にあって、来ヶ谷唯湖は直枝理樹の背中を押して、自らそこを去る。
 ……備忘のためのメモ帳、果たされなかった約束。原作のそういった要素を省いた分だけ、異端さが際立った物語だったと思う。原作以上に何も起こらないルート。最初の花火を最後として、後は何も続かない。停滞するだけの世界の中、彼女は原作のように恋人として振る舞うでもないし、恭介は二人の逢瀬を物憂げに眺めるだけだ。原作で印象的だったイベントはかなりの程度削られていたけれど、それはアニメの大筋に要請された必要な調整だったのだろうし、何より、それらイベントを介さずとも来ヶ谷唯湖というキャラクターが魅力的に描かれていたことを、まずは喜びたいと思う。
 繋ぎの話ではあった。次はいよいよ、鈴の話だ。
 
 以下、与太と雑感と展開予想。
 ―――原作の来ヶ谷ルートにおける恭介の振る舞いは少し不思議で、彼は理樹の恋を最初は支援するものの、振られてしまった理樹が諦めない旨を表明した途端、理樹がこれ以上傷つくことを心配し始める。

【恭介】「…もう、いいんじゃないか?」
【恭介】「これ以上やっても、おまえが心に傷を負うだけの結果になるかもしれない」
【恭介】「そりゃ、好きだなんだの色恋沙汰に、そういう結果はどうやってもついて回るだろうが…」
【恭介】「だが、おまえが傷つく…そんな可能性がこれ以上高くなるなら、俺にはそれを手伝うことは出来ないよ」
【恭介】「来ヶ谷のことだ。今なら全部水に流して、今まで通りにやってくれると思う」
どういうことか、一瞬わからない。
…それはつまり、諦めろってことだ。
【恭介】「たぶん、おまえにあいつの相手をするのは難しいよ」
【恭介】「おまえも前に言ってただろ、来ヶ谷がリトルバスターズから離れるのがいやだって」
【恭介】「ヘタなことしたら、マジでそうなるかもしれないんだぞ?」
【恭介】「気まずくなって、友達ですらいられなくなるってのもよく聞く話だ」
【理樹】「………」
【恭介】「おまえ、そうなったら嫌だろう…?」

冷静に考えてみると、確かに…恭介にしては、的外れなことばかりやっていたように思えた。
それはつまり、最初から、この結末がわかっていて…。
僕があまり傷付かないように、さっきまでみたいに、みんなで軽く笑い飛ばせるように、動いていたんじゃないだろうか。

 恭介の目的は理樹を強くすることであり、自分たち―――GM側三人への依存を弱めることであった筈。失恋を経験したり、その上で尚も足掻いたりすることは、その目的に沿っているように見える。だから、ここでの恭介の発言を字面通り解釈するのはおそらく早計で(傷つく、というのならクドや小毬との恋の方がキツかろうが、こちらではむしろ後押しをしている)、これは来ヶ谷との恋が停滞だけを招く、ループ世界にそぐわないものだという懸念を表明したものと解釈できる。
 だが一方で、他のヒロインの個別ルートを見ても、彼女らは理樹を強くすることに虚構世界での生を捧げているようには見えない。理樹の成長に資することを志向していないのは他のヒロインも同じだ。ここから、ヒロインたちの未練を解消することも虚構世界の目的の内に組み込まれているのだと想像できる(何しろ、突然の死に直面した上での猶予期間こそが虚構世界なのだから)。原作の各イベントの様子から、未練を果たしたヒロインがNPC化し後景化するのだと仮定すると、恭介の「何度でも繰り返す」発言を鑑みても、理樹を強くするための試練はNPCとなった彼女らとの触れ合いでもよいと考えるのが自然かと思う(一度きりのプレイヤーたるヒロインとの触れ合いのみが彼を強くする、となると、ループの本質的な無意味さが露呈してしまうので)。
 さて、こう考えると、恭介が来ヶ谷ルートでのみ消極的になった理由は、実はよくわからない。虚構世界での役割に自覚的な他ヒロインと、役割を無視して引き延ばす来ヶ谷唯湖、という対立構造が完全には成立しないからだ。ループの遅滞にしても、虚構世界でのループは相当な回数の繰り返しを経てきたと想像できるのだから、そこでの実時間の消費がどれほど恭介の計画にとって問題であるか、は確定させる術がないとはいえ、致命的であると断ずるのは難しい。未練の解消を優先するのなら、それこそ来ヶ谷唯湖との恋は他のヒロインとの恋と同様に祝福されて然るべきだろう。
 ……こういった腑に落ちなさについては、世界の構造に他のヒロインが奉仕していないから、という理由でとりあえず説明しておくのがいいかと思う。最大のギミックに忠実に奉仕しつつ、そのギミックに対して異端な立ち位置に存在するはずだったのが来ヶ谷ルートであり、しかし現実には他のヒロインがギミックに関わらない形のシナリオとして完成してしまった。結果として、異端である筈のヒロインが最も世界の秘密に忠実な振る舞いをするに至った。そう捉えておけば、一応の納得には到れる。
 尚、制作の事情については全然知らないので後半は全て妄想です(駄目じゃん)。たぶん企画の内容が何回か変わったことは間違いなかろう、とは思うのだけれど。適当なこと書いておけば以下略の法則に期待しつつ。
 
 で、原作における来ヶ谷ルートは以上のような浮き方をしていたんだけど、それとRefrainアニメ版とを比較すると面白い。
 物語の始まりからして、そもそも来ヶ谷唯湖は恋を実感できている。恭介も彼らの恋を全面的に応援する。鈴は既に、明白な嫉妬を覚えるだけの自意識を確立している。特に印象的なのは恭介の振る舞いの変化だ。2話において、恋が人を強くすると意味深なことを言ってみたり、理樹に「お前は誰かを本気で好きになったことがあるのか」と真面目に詰め寄ったりもする。彼の行動原理が原作と違っているのはまず間違いないだろう。
 恭介の立ち位置の変化については、恭介の来ヶ谷に対する信頼の表れ、と解釈したい(多分に願望を含んではいるが)。無印のアニメ版からずっと、この物語は「リトルバスターズ」という集団の話として展開してきた。直枝理樹が孤軍奮闘する話ではなく、或いは孤軍奮闘するにせよ、その背後には棗恭介だけでなく、他のメンバーの姿がある、そんな物語として。だからこの時点で、恭介は来ヶ谷唯湖がいずれ自分から世界を終わらせてくれることを信じていたのではないか。雨の中、放送室の二人を眺めるあの物憂げな表情は、そういうことだったのではないかと、僕は思いたい。
 ―――そう、アニメ版では、世界を終わらせたのは来ヶ谷唯湖なのだ。原作のように、世界の終わりまで二人で語らうのではなく。明確に、棗鈴へとバトンを渡して、彼女は自らの未練を振り切った。
 無論、そうさせたのは恭介であり、そのような場を用意したのも恭介だ。彼が原作と同様の残酷さを纏っていることは、まず間違いない。だとしても、大枠が変わっていないとしても、棗恭介が来ヶ谷唯湖という人物を他のリトルバスターズのメンバー同様に扱ったというただ一点をもって、僕はこのアニメを観て良かったと感じた。
 
 ……うーん、仮定部分の何割くらいが正解なんだろう。そもそも原作の解釈からして自信がないんだよなあ(断定できない部分まで断定してたりするので)。
 
 4話以降の予測。原作のような鈴ルートはまず不自然になってしまう筈だ、とは言える。描写の水準を信じる限り、鈴は既にそう弱くない。原作通りのHANABI展開に持ち込むのは難しいだろう。何より、アニメ版は理樹と鈴を皆で強くする物語のように読めるし、ここで強く理樹と鈴、それに謙吾の絆を強調する一周目鈴ルートを持ってくる意味があまり見えない。
 ただ、難しいのは後半のHANABI展開であって、たとえば併設校に行くこと自体は問題なく可能ではある(某氏の発案。パクらせて頂きました)。その場合、原作では理樹と小毬以外のキャラクターの携帯が鈴に通じなくなる、という過酷な状況があったところを、アニメ版では全員が問題なく励ますなどする、といった演出で差異を強調することができる。
 とにかく雨の中の野球勝負と茶番だぁーっはPV観る限りありそうなので、どうやってそこに至るか、が焦点になる。強権を振るう恭介とそれを打倒しようとする理樹/謙吾、という構図さえ再現できればいいので、実はHANABI展開が存在しなくても出来る筈。
 あと、OPで日本家屋にいる鈴のカットがあるのは気になるところ。現実世界での鈴のトラウマ、として解釈すれば、必ずしもRefrain中であの場面を再現する必要はない、とは言える。ナルコレプシーの克服と暗い部屋での孤独の克服を対にして、理樹と鈴の二人を救い手として完成させる。……流石にないか。
 
 ……リトルバスターズという集団の強調、来ヶ谷唯湖への視線の軟化、恋を推奨する発言にも関わらずそれほど鈴との恋をさせることに拘ってない点、などについて何だかんだ考えているうち、もしかして恭介だけが死ぬ展開なのでは、という電波がですね。こう。つまり「自分がいなくなっても」彼らが絶望しないように、という意図のもとに総てが行われている説。他のリトルバスターズメンバーも生存するかも知れないし、確実に死ぬのは栓をしている自分だけ。とにかく自分以外の寄る辺を持ってくれればそれでいい、と恭介が考えていたとしたら?
 こう考えると「理樹が強くなり、鈴は理樹と共にいる」という構図を採用しなかった理由とか、恭介が全体的に黒幕としての表情よりも今を楽しむ馬鹿としての表情を多く見せている理由だとかが説明できなくもない。格好良く一人で去っていこうとする馬鹿を、皆が手を繋いで引き戻す話。……SSでやるべきか。流石に。
 或いは、本当に「ここからは一冊しか持っていけないよ」を強調した話にするのかな、とも思ったのだが、現状ではやや無理気味か。Refrainの主題歌が強く展開を示唆するものだったから、ここで無印の歌詞を拾ってくる可能性もないではないか、とも思ったのだけれど。

リトルバスターズ! Refrain 2話まで

 毎話感想書くとか言ってた人間がいるらしいですよ? ……有言不実行してばかりの人生でしたね。
 
 アニメ版のリトバスで特筆すべきは原作に於ける一対一の恋愛要素をアニメ化に際してさっくりと切り落としていたところで、これは勿論ループしているのか否かが明示されない段階で恋愛という不可逆な感情の変化を導入することは即座に時系列の操作を見破られる要因となるから、という作劇上の/戦略上の都合を含んだ事情ではあるのだろうけれど、そこで恋愛の代替として扱われているのが友情、それも直枝理樹個人とヒロインとの間のそれではなく、リトルバスターズという集団の結束を象徴するそれが扱われている、という部分に注目したい。リトルバスターズという大きなチームと、リトバスという物語自体の大ネタの食い合せが悪い―――正確に言えばリトルバスターズ発足メンバー以外が世界の秘密にうまく絡みづらい、というのは僕を含むある程度のユーザーの間で共有されている認識と思う。雑に言えばリフレインが本番、みたいな。だからこそ、他のヒロインを無印に、姉御だけをRefrainに配置したことには、別の意味を読み込みたくなる。

 ……つまりその、直枝理樹を強くするための物語と、ヒロインがトラウマに直面する物語とは違う筈だろう、という齟齬を抱えたまま原作の各ルート(除Refrainおよび姉御ルート)をプレイしていた訳です。二人の成長の為に奉仕する物語なのか、末期の未練を手放すための最期の猶予なのか、そこがあやふやになっていた。だからこそ真人はどこまでも尊かった、とかそういう話。更に言ってしまえば、あのループは理樹と鈴の二人を強くするためのものであった筈なのに、多くのルートでは鈴が画面から消失していたことも、世界観と実際の物語との乖離を感じさせた。
 だから、無印のアニメ版で愛情が友情に置換され、皆と一緒に頑張るうちに二人がどんどん強くなっていったことは、スタッフが少なくともリトルバスターズという物語をある意図の下に再編しようと考えていることを伺わせた。それは姉御ルートだけがRefrainに持ち越され、ここで初めて明示的に「好き」という言葉が持ちだされたことで、一層はっきりとした。世界は明確に二人を強くするために動いていて、だからこそ、ルールから外れた姉御の物語のどうしようもない儚さは浮き彫りにされる。……姉御ルートが浮いて見えないくらい他のルートに統一性がないのってやっぱりヤバいよなあ。原作。
 
 とりあえず2話の時点ですごい話が進んでてびっくりしました。強くなってしまった理樹くんが原作序盤の流れをなぞれるとは到底思えないので、物語の始まりをループで隠すのは非常にうまい処理だったと思います。
 描写に関しては原作との乖離点を列挙していくとキリがないくらい細かく変更されてるっぽく、特に展開を先取りすることで花火シーンにおいて既にデレっとした姉御を描いたのはちょうすごいなーと思いました。確かあそこではまだ恋愛感情がわからないとか言っていた、ような。みおっちを儚げな読書少女として描いてたの含め、アニメつよいなーという感はあり。
 鈴が明白に原作の比ではなく自意識を持っていること、恭介の独白のニュアンスが違ったこと、恭介が姉御との仲を邪魔してこない(アニメだと関係が成就してしまいそうなのに!)こと、あたりがとりあえず重要なのかな。
 

hollow ataraxia

 hollowの昼パートのどうしようもない怠さはキャラの記号的な戯画化/先鋭化によるギャグのパターンの描出というstay night直後から1年間ずっと二次創作で見せ続けられてきた類の処理をよりにもよって公式FDで観測する羽目になるという悪い冗談のような構図が齎すものであって、僕たちははらぺこ王やあかいあくまや黒桜といった単語を想起させられる展開を見る度につらい想いをさせられた訳なのだけれど、あの退屈さ、凡庸さは時間的/空間的に強く制限された世界のリプレイの中では極めて狭いバリエーションの出来事しか起こらないという端的な事実を主張すると共に、そのような出来事―――汎用で、退屈で、色褪せた―――こそが/であっても彼にとっては価値あるものであった、という本編で何度も説明された事柄の裏付けとしても機能する。ので、正しい。
 もっと正しくするためには新たに開陳された設定やsn本編では実現されなかった対話を中盤までに固め、終盤はひたすらある種のSSのごとくステレオタイプを垂れ流す構造にするといいのかなーと思ったけれど、本編がどうであったか記憶が朧気だし、そもそもそうであったからああまでつらかったのでは、という気もする。
 
*9/22追記
 岩戸の前でダンサブルに舞ってたら声を掛けられて大層驚いている、といった風情(そのうち整理して何か書くことでしょう)

戦姫絶唱シンフォギア(キャラについて)


・立花響
 悠木碧マジパネェッスワァ……と震えながら焼き土下座する感じになります。僕の中で斎藤千和枠に入った。叫び声や泣き声の異様な迫力はもちろん、照れて変なこと言ってる時の変な声こそが超すばら。
 迷わない馬鹿でもなく、迷ってばかりの雛鳥でもない。シンフォギアは程度の差はあれ皆そんな感じだが、現在の在り方を保ち動き続けることと、そこに疑問を持つこととは矛盾しない、という思想の体現。足を止めず、未来を向くために過去を見据える。ワイルドアームズにおいて「思い出」という言葉が妙に強調されることと符合する、かも。
 英雄ではないからこそ、かっこいい。砕けた月の迎撃シーン、最初は逆シャアのオマージュかと思った(超貧困)し、これは捨て身特攻フラグなのでは? とも思ったんだけど、よくよく考えると金子彰史氏がそんな展開を書く訳がなかったのだ。だって、英雄は「いらない」のだから。誰かに犠牲を押し付けた平和なんて、望まない。英雄のごとく活躍する戦士は、その実、ただ守りたかった日常に帰るために戦っている。彼の描くかっこ良さはそういうものだったし、これからもそういうものであり続けるだろう。おねーさんだってエッチなこととか考えるらしいし。
 戦闘スタイル。八極拳パイルバンカーとか超かっこいいので全肯定するほかありません。しかもジェット噴射もできる。完璧。
 
・小日向未来
 きれいなマリナさん。いや実際、マリナさんのリファインと言われてもすんなり納得できる感じではある。待つだけのヒロインから、自分の戦場で戦うヒロインへ。
 日常と戦場(やはりイクサバと読みたい)が地理的にも状況的にも重なりあう本作において、響が護りたい日常の象徴として在りつつ、一方では戦場の響に力を与え、またクリスに巡り巡って救いを与える立ち位置にもいるキャラクター。護られる方だって一生懸命なんだ、という響の悟りを体現する女の子。こんなに可愛く見えるとは1話の時点では全く思ってませんでした。シンフォギアのキャラは(響除いて)皆そうなんだけど。思い入れ育みアニメだなあ。
 響を咎める時の理由が「嘘をついたから」だけだったのが、こう、誠実さを伺わせてとても良かったとかなんとか。咎められた響もまた、一切の正当化をせず、嘘をついたことを悔いていたのがまた。
 
・風鳴翼
 ―――剣だ!
 かっこよくも頑ななキャラなのかなー、と思ってたところにまさかのカポエラ殺法。そして異様に格好いい技名。考え事をするためだけに道場めいた場所で蝋燭を灯しちゃったりするセンス。極まった言葉選び。フェイトそんも大概天然として読み込まれがちではあったけど、翼さんは段違いにヤバい。本当に自分の世界で生きてるんだなーという感じがする。
 彼女の成長譚としての側面も強い作品だったなー、と。奏の強さを受け取り/彼女の観ていた世界を理解できた翼さんが、奏に生かされた響を抱き留めるあのシーンは、本編ベストクラスの極まった構図だったんじゃないかなあ。強さのバトンタッチ。そして彼女は喪った筈の両翼をはためかせ、空を飛ぶのだ。
 下手すれば中二病的に読み込まれそうな彼女の言動が、実際にはそういう色を帯びていないのは、ひとえに自意識が全く過剰ではないから、という理由で説明できましょう。こう言えば格好いい、ここでこう言うのが風鳴翼だ、というメタな自己認識の感じられない、どこまでも自然体な在り方。
 
 
 長くなりそうなので更に続く。

戦姫絶唱シンフォギア(全話)

 観終わったばかりの取り留めのない話をそのまま書いておく。たぶん論理甘い。
 どこまでが自分一人で考えたものかは例によって例のごとく既に不明瞭。
 
 終わりの名を持つ者(この名称好きすぎて困る)。
 彼女の計画―――統一された言葉亡き世界を痛みで繋ぎ直すこと―――が正しいか正しくないか、といった倫理的な判断は措くとしても、とりあえずそれが実現可能性に乏しいものであるとは指摘できて、天変地異で恐慌を来した人々の前に超強い新人類が降り立ったからといって、世界の統一が成るとは考えにくい。彼女が語るような支配の成立には、充分に原始的で、且つ狭い世界であることが要求される。だから、彼女の語る理想の世界への道筋は杜撰で、雑だと言うほかない。
 ……だが、彼女の最初の目的はきっと、創造主と言葉を交わすことの方だったろう。自分で規定した目的はいつしか妄執を産み、また、その通りに振る舞うことで目的は再帰的に強化される。実存と本質を相互に補完し始めた人間は、どこまでも強度の高い現象と化す。想い人に言葉を告げる、ただそれだけの目的が、主観的な大義をも纏ってしまう。二つの目的が混ざり始めた、そのタイミングがいつなのかは知れない。だが、カ・ディンギルが破壊された時の彼女の嘆きは、その直後にもうひとつの目的―――おそらく、本命の目的―――が明かされたとはいえ、それとは別に、強く真実味を伴うものだった。或いは自分を納得させるための方便かも知れないし、或いは雪音クリスのような協力者(各時代に複数いたのだろう)の了解を得るための甘言だったかもしれない彼女の理想は、最初に掲げた創造主への愛とは別に、確かな強さをもって実在していたように思える。
 始まるための想いと、続いてゆくうちに得る想いとの、小さなズレ。
 
 この種の目的の摩り替えに関して、直ちに想起されるのは風鳴翼の在り方だ。一話の出来事で「奏と共に歌い続ける」という目的を失った彼女は、紆余曲折の果て、戦士としての在り方を自らに求め、またそれを防人の在るべき姿として定義し、自らがそうであり、また、そうであったと仮構するに至った。目的の捏造と、そこから帰納的に導かれた本質の自認。本質と実存とは相補的に働き、原初の想い―――ただパートナーと共に居たかったという単純な感慨を置き去りにしたまま、ただ一本の剣としての風鳴翼を駆動し続ける。彼女が救われるのは、かつて共に在りたいと想った少女が視ていた景色を、立花響の言葉を通じて眺めた時だ。そこで漸く因果の捻れは解消され、彼女は両翼を取り戻す。彼女の中の天羽奏が、笑顔を見せる。
 一方で雪音クリスは、救い手として/また或いは母親の代理として依存していたフィーネと共有していたその理想とを同時に失い、争いを無くすという願いだけを抱えたまま、変われない自分を駆動し続けていた。願いそのものが砕けた訳ではないにせよ、それを叶えるための手段も理想も失って、それでも彼女は対症療法的に現れたノイズを倒し、二課を援護していた。慣れ合いはしない、と吐き捨てながら、隠しきれない罪悪感を覚えつつ。後に風鳴司令の言葉を通して、亡き両親の想いが自らの理想と寄り添うことを知った時、宙ぶらりんとなっていた彼女の理想は確かな形を持ち、再度、支えとなった。
 立花響もまた、助ける者としての本質がどの体験に根差しているのか、どこからその想いが生まれたのか、迷いを抱えたまま戦っていた。誰かを助けたいという想いに偽りはない。でも、この想いはどこから来たものなのか。病室での風鳴翼の問い掛けに端を発する自問自答は、小日向未来を助け/また彼女に助けられる過程に於いて、嘗て天羽奏から託された想いの継承であると結論付けられる。
 
 彼女たち4人に共通するもの。それは始まりと続きとの目的のズレ、そしてその補正だ。最後には各々が手にしていた答え。だが、そこに真っ直ぐ辿り着けた者はいない。終始高い強度を見せつけていた響でさえも。誰もが一度は迷い、道を見失っている。そこで触れた誰かの言葉が、彼女たちに後ろを振り返らせ、前へと歩む為の答えを齎す。
 ―――シンフォギアとは再解釈の物語であり、再発見の物語であると思う。嘗て経験した事象の意味が、接触と対話とによって変化する。過去を振り返ることで未来を掴む物語の演出がしつこいまでの再演に満ちていたことは、極めて自然だ。そのように考えた時、無限の未来を渡り歩くであろうフィーネに投げかけられた立花響の言葉は、だからこそ、何よりも温かい。
 ……打倒することではなく、説伏することでもなく、ただ願い、託すこと。いつかフィーネにとって遠い過去となるであろうあの別れの言葉が、いつか彼女を変えることもあるだろう。これは、そういう物語だ。
 
 
 
 一端中断して、WA2(ワイルドアームズ2nd)を踏まえた雑感。ゆるゆるっと書きます。
 未来との不和を重ねるにあたって使われた戦う姿の隠蔽はマリナにロードブレイザーとしての自分を隠すアシュレーを彷彿とさせる、とかなんとか。WA2において「僕のちっぽけなファルガイア」と称された恋人の腕の中は、シンフォギアにおいても全く同じ構図で、日常の象徴として扱われている。いつか帰る場所。しかし未来さんはマリナと違ってかわいいのでよいですね(なんでヒロインはリルカ・エレニアックちゃんじゃないの問題)。
 フィーネさんの防御技ことアースガルズ。視聴してる時はゴーレムの名前だと気付けませんでした。ファン失格やな。
 痛みを以って為される団結、というモチーフはそのままWA2の前半で人類が団結するために結成された共通敵ことコキュートスを彷彿とさせる。嘗て自分が提示した人類団結のための手法を作中で主人公に否定させてみせた、その決断の裏に何かしら強いものを感じたりしたトカなんトカ。
 どこかでゼットン的なアレが出てくるかなーとか思ってたけど流石に居ませんでしたねー。でもノイズは割と怪獣デザインらしいトカ。あんまり怪獣知らないので……。
 
 次回に続く(たぶん)。次はキャラ語りとか。

ガールズ&パンツァー(全話)

 反復される描写を通じて実感される成長と、小さなコミュニティのなかでその緊密さを増すコミュニケーション網の発達。そして描きたい事柄の多さに比して足りない尺が要請した、極めて速いテンポ。
 高い水準で作られた、当然のように素敵な作品、という印象。なので、どれだけ面白かったか、を語ってもあまり面白い視点が出せそうにない。秋山殿の話はもうしてしまったことだし。緩やかな変化の伏線について語るには再視聴が必要だろうし。
 
 周辺の文脈の話とか記述しておく。
 美少女とミリタリー、という括りでストライクウィッチーズやうぽっての名前が共に上がる場面を何度か見たが、ガルパンはミリタリーに美少女を突っ込むのではなく、ミリタリー要素を美少女スポ魂ものを描くためのギミックとして導入した/導入するためにデフォルメした、というところにおそらく最大の巧さがあって、これを「美少女と組み合わせれば何でも売れる」などと腐すのは、流石に素朴すぎとの謗りを免れまい、と思う。
 たとえば『咲-Saki-』が麻雀という競技を「利害の絡む4者競技で、本質に根ざした異能を発揮する余地のあるゲーム」として最大限に利用しているのと同様に、ガルパンにおける戦車道もまた、大人数の少女を会話させつつ命の危険がないゲームに投入する……という極めて特殊な要請を満たす舞台装置として機能している。そう考えた時、「次は戦闘機美少女だ」「艦戦も行ける」などと言い始めるのは早計に過ぎて、たとえば美少女とミリタリーとを接木するためにどれだけ極端な仕掛けを必要としたかについてはストライクウィッチーズの頃に散々考察されたものと思うのだが、これがガルパンになるとビジュアルの普通さゆえにその仕掛けの精巧さが意識されなくなってしまい、そこに凝らされた工夫は見落とされてしまう。
 そういった話をしたいのなら、ガルパンの世界観が如何に奇妙であるか/その奇妙さをどう隠蔽しているかについて考え、同じ理路を目指すにせよ目指さないにせよ、個別のミリタリー要素と美少女とをうまく馴染ませる方法論を確立すべきだろう。そうまでして、やっとカジュアルに「またミリタリー美少女ものか」と罵倒されるような作品が出来上がる。
 
 キャラとしては秋山殿と生徒会長が好き。
 心に残ったシーンはというと、やっぱりダージリン戦のゼロ距離射撃。だからこそ、最終話でのあの反復には心底痺れた。尺に余裕がないからこその緊密な構成に、改めて感心するところ。